死のかたちから見えてくる人間と社会の実相。過去百年の日本と世界を、さまざまな命の終わり方を通して浮き彫りにする。今回は2023(令和5)年。番外編として、昨年旅立った音楽家たちに着目してみた。
2023(令和5)年
KAN(享年61)谷村新司(享年74)坂本龍一(享年71)もんたよしのり(享年72)大橋純子(享年73)櫻井敦司(享年57)チバユウスケ(享年55)夏まゆみ(享年61)ほか
昨年は年間を通して、大衆音楽家たちの死が目立った。
日本レコード大賞では、そういう人たちの生前の功績を称えるための特別功労賞が設けられている。昨年の顔ぶれは、やはり豪華だ。
「伊集院静 犬塚弘 大橋純子 KAN 小西良太郎 坂本龍一 櫻井敦司 高橋幸宏 竹村次郎 谷村新司 遠山一 三浦徳子 もんたよしのり」
12月30日に生放送された「第65回輝く!日本レコード大賞」(TBS系)ではそのなかのひとり、KANの代表作「愛は勝つ」をスキマスイッチがカバーした。
「愛は勝つ」は1991年の「レコ大」ポップス・ロック部門の受賞作でもある。レコ大が歌謡曲・演歌部門とポップス・ロック部門の二部門制を敷いたのは90~92年の3年間。いわば、過渡期的状況への対応策であり、この時期に大衆音楽のメインは歌謡曲からJポップに移行した。「愛は勝つ」はJポップの時代の幕開けを象徴する曲でもあったわけだ。
そんなことを考えながら、昨年亡くなった大衆音楽関係の訃報を眺めてみると、興味深いことに気づく。Jポップがまだフォークやロック、ニューミュージック、シティポップなどと呼ばれていた時期を支えた人たちが多く含まれているのだ。
谷村新司にしても、今となっては「昴」や「いい日旅立ち」の印象が強いが、アリス時代にはフォークからロック、ニューミュージックへというトレンドの流れを中心になって牽引した。
また、坂本龍一と高橋幸宏は存命中の細野晴臣とともに「テクノポップ」で世界を席巻。アイドルへの作品提供にも積極的で、83年にはYMO自体がアイドル的展開を行った。化粧品CMソングの「君に、胸キュン。」をヒットさせ「ザ・ベストテン」(TBS系)や「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系)にも出演。アイドル風に作られたMVではさすがにぎこちなさそうに踊って(体を揺らして)いたが、インパクトは十分だった。なにせ、それまではYMOを洋楽のスペースに置いていたオシャレ系のレコード店が「君に、胸キュン。」の扱いに困り、混乱をきたしていたほどだ。
このようにジャンルをかきまぜてごちゃごちゃにする動きは、細かいジャンル分けを無意味化する。その結果、ごちゃごちゃしたものをひとまとめにしたかのような「Jポップ」という大ざっぱな呼び方が生まれ、定着していくわけだ。
そういう意味で、もんたよしのりの死も感慨深い。もんた&ブラザーズ時代に「ダンシング・オールナイト」をヒットさせ、オリコンでは10週連続1位という快挙を達成。ロック系でありながら、テレビ出演にも積極的で、死の22日前にも「うたコン」(NHK総合)で生歌唱していた。
ちなみに、ビーイングの創業者・長門大幸は「ダンシング・オールナイト」に触発され、三原順子のデビュー曲「セクシー・ナイト」でそのパロディをやった。ビーイングはその後、サザンオールスターズからTUBEを、森高千里からZARDを、宇多田ヒカルから倉木麻衣を着想して成功。また、BBクイーンズやB'z、大黒摩季らも輩出して、Jポップの時代の一翼を担っていく。
なお、もんたはブレイク当時、北島三郎が社長兼稼ぎ頭だった北島音楽事務所に所属しており、同僚の大橋純子と「夏女ソニア」でデュエットするなどした。その大橋も今年、帰らぬ人に。もんたの死が公表された翌日には、
「コロナ前になりますが、久しぶりに神戸国際会館で2人で夏女ソニアを歌って、キーの高さでヘトヘトになりながら『まさかお互いこんな年代になるまでこの曲を歌うなんて思わなかったよね』なんて笑いながら話したり。でも若手時代を思い出しながら楽しいひとときを過ごさせていただきました」
というコメントを出したが、そのわずか17日後の死だった。
大橋はいわゆるシティポップの代表的歌手。ここ数年、シティポップは海外で人気と評価を高めているが、そのきっかけとなった作品が79年にリリースされた松原みきの「真夜中のドア~Stay With Me」だ。ただ、松原は2004年に44歳で死去。同じく、シティポップの中心にいた須藤薫も、13年に亡くなった。大橋も晩年は病気がちだったとはいえ、シティポップの再ブームを見ることができたのはせめてもの幸いだったかもしれない。
また、ライブ中に脳内出血を起こし、搬送先でそのまま息を引き取ったのがBUCK-TICKの櫻井敦司だ。レコ大では、88年に新人賞、91年に優秀アルバム賞を受賞。冒頭で触れた音楽シーンの過渡期に現れ、のちのヴィジュアル系ロックに大きな影響を与えた。
とまあ、ここまで挙げたのはレコ大で特別功労賞を贈られた人たち。それ以外にも、Jポップの誕生前からその成長過程を支えた音楽家が何人も旅立った。
シーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠や頭脳警察のPANTA、ムーンライダーズの岡田徹、X JAPANのHEATH、 THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのちThe Birthdayのチバユウスケといった面々だ。
このうち、鮎川とPANTAは昨年2月に「頭脳警察 x シーナ&ロケッツ対バンライブ」を行う予定だったが、両者の死により幻となってしまった。
そして、HEATHとチバユウスケについては、大晦日の「NHK紅白歌合戦」でそれぞれ追悼される場面があった。
まず、前者については、世代やジャンルの近い仲間たちとともに出場したYOSHIKIがこんなことを口にしたのだ。
「X JAPANのギターのHIDE、ベースのTAIJI、そして今回、HEATHが旅立ってしまって。自分はなんでまだ生きているんだろうと、生きてていいのか、そんなふうに思っているんだけど。だけど、ね、こうやって今日、素晴らしい仲間たちが集まってくれて、ファンのみんなに支えられて、頑張っていられるんだっていう、そういう思いを今からみなさんに伝えられればと思っています」
かたや、後者については、10-FEETのTAKUMAが間奏に入ってすぐ「SLAM DUNK!The Birthday チバユウスケ!」と叫んだ。自分たちが歌っていた「第ゼロ感」が映画「THE FIRST SLAM DUNK」のエンディング曲で、同映画のオープニング曲「LOVE ROCKETS」をチバのThe Birthdayが担当した縁を思いながらのシャウトだ。さらに「LOVE ROCKETS」の一節を即興で歌うことまでした。
このパフォーマンスについて、TAKUMAはこう振り返っている。
「直後にNHKの担当の方が舞台袖に待っておられて『出禁かな』と思ったらリンクから上がるフィギュアスケート選手を抱きしめるコーチのような顔で褒めてくれました。めちゃ嬉しかった」
そういえば、チバにも有名な生放送でのエピソードがある。2003年にTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTとして「ミュージックステーション」(テレビ朝日系)に出演した際、ロシアの女性デュオ・t.A.T.u.が出番をドタキャン。すでに1曲、演奏済みだった彼らがもう1曲演奏して、空いた時間を埋めただけでなく、のちにタモリが語り草にするような盛り上がりを生み出したのである。
さて、最後に話をKANに戻そう。公式SNSでの最後の発信は死の5日前、こういうものだった。
「The Beatles【NOW AND THEN】(Official Music Video)やっと観た! やぁ・・・、いろんなことが素晴らしすぎて書き尽くせない。エンディングも美しいですね」(原文ママ)
昔のデモテープから、最新技術を使って作られたビートルズの「新曲」のMVについての感想だ。彼の音楽的原点はクラシックピアノだが、大衆音楽に関してはビートルズ。中3のときには「ミートルズ」という、ビートルズのコピーバンドを結成したりした。
そんな彼が人生の最期に、こういう言葉を残したこと自体が美しい。また、昭和後期の大衆音楽がビートルズをはじめとする英米のポップスやロックの影響を受け、その帰結したかたちがJポップであることを思えば何やら象徴的だ。
なお、彼が所属したアップフロントグループの前身はヤングジャパンで、フォークやロック系の芸能事務所だった。アリスや海援隊、佐野元春らが巣立ち、アップフロントに変わってからは森高千里、シャ乱Qが成功。その後はモーニング娘。を大ブレイクさせ、ハロー!プロジェクトのブームを生み出した。
そのモー娘。やAKB48の振り付け及びダンス指導をそれぞれのデビュー時から手がけた夏まゆみも昨年、帰らぬ人に。KANと同じ61歳だった。
こういった数々の音楽家の死は、Jポップの「思春期」いわばその若き日々へのレクイエムのようなものだった、という気もしてならない。
文:宝泉薫(作家、芸能評論家)