>>337追加。
『岸信介証言録』。1980年暮れから一年半にわたって行われた岸信介へのインタヴューを収録したもの。
岸氏が商工省工務局長から満州国(一九三二年建国)実業部総務司長へと転進したのは、一九三六(昭和十一)年である(翌年産業部次長として事実上同部を掌握する)。広田弘毅内閣の時であった。
疑似国家満州国の産業開発にその辣腕を揮いながら国家経営の戦略的スキルを身につけたのは、この在満三年の間であったといってよい。ソ連の第一次(一九二八−三二年)、第二次(一九三三年開始)の五ヵ年計画に大きく影響されてつくられた満州国の産業開発五ヵ年計画は、ほかならぬ岸氏によって実践されていくのである。
しかもこの三年間は、彼が国家社会主義・大アジア主義を背負って権力と人脈を大きく培養しつつ、「国家」をいわば鷲掴みにするその実感を会得していく三年間でもあったといえよう。
満洲国の有力者を「弐キ参スケ」と呼びますよね。
1935年に関東軍の憲兵隊司令官に着任すべく渡満した東條英機、32年に大蔵省から派遣された財政担当の星野直樹の「弐キ」。
1935年に満鉄総裁となった松岡洋右、37年に満州重工業開発社長に就任する鮎川義介、そして36年に商工省から派遣された岸信介の「参スケ」。
暴走する軍人や右翼の大陸浪人、日本本土にいられなくなって満鉄などに入った左翼、朝鮮半島や台湾の植民地人など雑多な人びとの集まった満洲で、彼らが新国家建設の指揮を執ります。
そうそう、松岡洋右も山口県熊毛郡の出身で、洋右の妹・藤枝は、岸信介らの母・茂世の弟・松介に嫁いでいます。で、佐藤松介と藤枝の娘が佐藤栄作の妻・寛子。