>>495
ご質問の「即身仏」は、この即身成仏という教えを江戸時代の行者が誤解・曲解し、高徳の行者の遺体をミイラ化して“仏”としてお祀りしたものです。しかし、現代ではこの即身成仏と即身仏を混同し、“即身成仏はミイラになることだ”と勘違いしている節もあるように思いますので、誤解なさらないでください。
即身仏が生まれた背景には、“弘法大師(空海)は死んだのではなく、高野山で永遠の禅定(ぜんじょう/瞑想のこと)に入り、人々を救済している”という「大師入定(だいしにゅうじょう)信仰」や、山岳信仰では“山で修行する行者は、厳しい行を積み重ねることにより神仏と等しくなる”という「人神(ひとがみ)信仰」などの影響が考えられます。
古くから日本では、罪を犯すことにより災いが引き起こされる。だから災いを鎮め、幸いを望むためには、まず罪を償うことが必要であるという信仰があります。それらの古代日本のさまざまな信仰と神道や仏教、道教・陰陽道などが融合して「修験道」というひとつの体系化した教えが生まれました。
修験道では苦行を重視しますが、これは自己の滅罪のためと、さらには他者が犯した罪によって受けるべき苦しみを、行者が成り代わって苦しみを受けるという、「代受苦(だいじゅく)」という信仰があります(ここでの「罪」とは社会的な罪だけでなく、倫理的・宗教的な罪が含まれます)。 つまり、行者が修行によって受ける苦しみは、本来は他者が罪の償いとして受けるべき苦しみであるが、それを行者が成り代わって苦しみを受けている。そのことにより、他者の罪が償われて幸せが訪れる。苦行にはそのような面があり、また信者も苦行を積んだ行者はそれだけ験力が大きいと見なしました。