牧師
「キリストヘの信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納(かのう)なさるでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣うことになると思うのですが……」
「主よ、主よと、何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心にかなった行いです。それが全てです。口にする言葉や信じていることではありません。頭で考えていることでもありません。実際の行為です。何一つ信仰というものを持ち合わせなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢えている人にパンを与え、暗闇の中にいる人の心に灯火を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の御心にかなった人と言えます」
ここで列席者の一人がイエスは神の一部なのかと尋ねると―
「イエスは地上に降誕した偉大な霊覚者だったということです。当時の民衆はイエスを理解せず、遂に十字架に架けました。いや、今なお架け続けております。イエスだけでなく人間のすべてに神の分霊が宿っております。ただ、その神性を多く発現している人と少ない人とがいるだけです」
[匿名さん]
58節の御言葉から思考すればいい。
「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』
[123]
清野尊師のみことばに感銘を受けている者です
とにかく師はヤング!
いつも自殺したい気持ちが無くなります
真実の真理が分かる聖書講解術!
夜も寝ている暇なんて無いくらい気分が高まってきますね 世間の教会が愚かに見えてきました
[匿名さん]
イギリスの神学者であり、また作家でもある、C.S.ルイスという人が書いた、「被告席に立つ神」、という本です。以前にも、ご紹介したことがありますが、この本の中で、C.S.ルイスはこのように述べています。
「現代に生きる私たちも、神様を全く無視している訳ではない。私たちも、神様の言葉に、耳を傾けることもある。しかし、問題なのは、その耳の傾け方である。
現代人は、まるで、神様を、被告席に立たせているかのように、取り扱っている。
神様を被告席に立たせておいて、その神様に、様々な質問をして、答えさせている。これはどういうことなんですか? なぜこうなのですか? あなたは、神として、一体何をしているのですか?このような、色々な疑問を、神様にぶつけて、それに答えさせている。
そして、その答えに、自分が納得している限りにおいて、神様を信じている。
しかし、それは、信仰ではない。信仰とは、神様を被告席に立たせて、自分が裁判官の席に座って、神様に答えさせることではない。
そうではなくて、信仰とは、自分が被告席に立って、裁判官である神様の問い掛けに、答えていくことである。しかし、現代人は、神様を被告席に立たせ、自分が裁判官になってしまっている。」
C.S.ルイスは、現代人の問題は、神様を被告席に立たせておいて、自分が裁判官になっていることである、というのです。
しかし、本来、被告席に立つべきは、神様ではなくて、私たちです。問われるのは、神様ではなくて、私たちです。
あなたの生き方は、それで良いのか?あなたは、何をしているのか?あなたは、どこにいるのか?私たちが、そのような神様からの問いに、答えていくのが信仰です。
[匿名さん]
それが私たちの、基本的な生き方です。ところが今の世の中は、それが逆転してしまっている、というのです。
今朝の箇所でも、ユダヤ人たちは、主イエスを、被告席に立たせて、裁こうとしています。
しかし、キリスト者である私たちが、神様に訴えている時には、飽く迄も、私たちは、被告席に立って、訴えています。
被告席に立って、「神様、何とかしてください」、と裁判官である神様に、訴えています。
裁判官の言葉を聞き、それに従って、歩みだすために、訴えているのです。
被告席か、裁判官の席か。どちらに立って、神様に迫っているか。これは決定的な違いです。ユダヤ人たちは、主イエスを、被告席に立たせて、「あなたは自分を何者だと思っているのか」と言って、主イエスを裁こうとしています。ですから対話が、噛み合わないのです。
しかし、本当はその逆で、「あなたは自分を何者だと思っているのか」、と問うべきお方は神様の方であって、私たちではないのです。
[匿名さん]
私たちは、主イエスを、被告席に立たせて、問い詰めるのではなくて、自分が被告席に立って、主イエスのお言葉によって裁かれ、主イエスのお言葉を通して、自分を改めて見つめなくてはならないのです。そのことを、深く覚えたいと思います。
今朝の御言葉の中で、主イエスは、なぜ私の言葉を、受け入れないのか。なぜ私のことを信じないのか、と繰り返して言っておられます。
私のことを受け入れなさい。私のことを信じなさいと、心を込めて、言っておられるのです。
主イエスは、ご自分は、神様のもとから、遣わされて来た者なのだ。永遠なる存在なのだ、と言われています。そういうお方が、私のところに来てくださったのです。
これは本当に素晴らしいことです。
もし、私たちに、「私の主よ、私の神よ」、と呼ぶお方が、おられなかったなら、私たちは本当に孤独です。でも、そういう私たちのところに、神様が来てくださったのです。
あなたを、永遠の命に生かすために、私は来たのだ、と仰ってくださっているのです。
これは、素晴らしいことです。
ですから、この時、ユダヤ人たちが、「私の言葉を受け入れなさい。私のことを信じなさい」、と語られる主イエスに、「はい、分かりました。あなたのことを信じます」、と応えたなら、素晴らしいことが、起こった筈なのです。
ですから、主イエスは、ユダヤ人たちが、何と言おうと、どういう反応を示そうと、「私は神だ」、ということを隠さないのです。そのために、石を投げつけられて、殺されそうになりました。
でも、殺されようが、何をされようが、「私は神だ。あなたを、永遠の命に生かすために、来た神なのだ」、と言い続けられたのです。
悪霊に取りつかれている、と言われようと、サマリア人だと、言われようと、何と言われようと、ご自分を隠すことを、なさらなかったのです。
噛み合わない対話を、一生懸命に、丁寧に続けて、「わたしを信じなさい」、と語り続けておられるのです。私たちの信じている神様とは、こういうお方なのです。
私たちは、そのお方の御言葉によって自分を知り、救われて、命を頂いて生きていくことができるのです。そこに私たちの幸いがあるのです。そこに私たちの希望があるのです。
[匿名さん]
百読は一見にしかず、「ナルニア物語」の作者として知られるC.S.ルイスが、読書について語った言葉である。ルイスは、作家であると同時に、オックスフォードやケンブリッジで教鞭をとる英文学の学者であり、また宗教学者かな。
[匿名さん]
夢殿秘仏・救世観音菩薩立像>イエス・キリスト像
日本>クルス 日本(未来記)>聖書
[123]
エホバの証人 過去に数名との信者以外の相手と浮気繰り返してきた
信者の排除しない訳は
本人が隠ぺいしているから
神より 男を選ぶ信者がいた
〇〇〇か姉妹 バブテスマ伝道師
[匿名さん]
キリストは多くの人を死に追いやった
悪魔は誰も殺していない
[匿名さん]
清野 隆二さんの外格は14画の1点!
ウソで自滅しないように気を付けましょう。孤立してしまうかも。
生活面を象徴する運勢です。外部から受ける影響力を表し、結婚運、家庭運や職場、環境への順応性を表します。結果、長年ついていたウソがみなさんにばれてしまいます。
太陽のように活力に溢れ、創造的なアイデアを活かすことで好きな相手と性交するでしょう。
[匿名さん]
イエス・キリストの教えは日本人には難しすぎる
日本人は手っ取り早くご利益を得られる神でないとだめだ
神社で賽銭入れ手をたたいて拝む、家の神棚拝んで終わり
彼岸盆の年3回寺院のお墓で香華、線香手向けて合掌して終わり
[匿名さん]
イエス・キリストはヘブライ人でユダヤ人
キリスト教はユダヤ人迫害が絶えない理由によりユダヤ教から分派した宗教
[匿名さん]
元の氏名すらはっきりしません。
ナザレ人です。
イエスという名前が日本読みで英語ではジーザス、ギリシャ語ではイエズス、ではヘブライ語では???
ナザレ人イエスをキリストと認めないのなら、イエス・キリストではありません。
よってキリスト教徒でないのなら、ナザレ人イエスでしょうか。
パリサイ派のラビです。
[匿名さん]
神の子キリストは、その名も高し偉大な安倍晋三さま。
[匿名さん]
イエスが双子の片割れって、知ってます?
という、聖書の偽書があるそうです。
[匿名さん]
閻魔大王さまとかクリシュナが過去世だと聞いたことがあります。
[匿名さん]