>>98
当時とは1984年前後
自分が○○事務所に出入りしていた頃は、まだ北上武田会の武田さんは、勢い良くいきていました。
幹部だった山口ま○るさんは、病院乗っとりで逮捕後 生田総長の名前出して破門
その頃 亡き渡辺三郎が、生田一家に入社(笑)後 大船渡に渡辺総業と事務所かまえました。
宮城の気仙沼進出の話もあったみたいです。当時の生田一家に岩手で 文句の一つも言える組はありませんでした。だから反感飼っていた組は多かった。
後 山口組5代目渡辺よしのり組長になって念願の全国制覇が始まった。
岩手の殆どは生田一家に反感もっていたので、すぐに当時の交渉役の山健組に、釜石が加盟し盛岡 大船渡と
過去の 京都松前屋 東京盛大 源盛田連合会 姉ヶ崎連合会が、山健組の参加になった。
宮城県はかろうじて仙台の西海屋連合会が住吉会に加盟
とりあえず住吉会も勢力は維持できた。
その後すぐに 生田一家の大船渡渡辺総業に前姉ヶ崎や源盛田連合会がひし形の代紋背負って 反撃になってね、すぐ渡辺は生田本部に連絡。それが山口組と住吉会の大船渡抗争の始まりだったかな。
当時 渡辺事務所が来る以前に大船渡の窓口は江刺の小野寺組組長
抗争がおさまり 渡辺が大船渡来てからのいきさつを知った小野寺組長は相当激怒していました。
その時はもう遅かったのですがね。
でも すぐに暴対法が出て、若い衆はどんどん減っていきました。
未成年の少年ヤクザってのもいてね。本にもなるくらいヤクザがもてた時代も 暴対法で未成年の組事務所の立ち入りができなくなり 未成年(少年ヤクザ)時代も終わりました。
今も ユーチューブとかで昭和の少年ヤクザって見れますよ(笑)