1987、88年ごろのチームは打撃力がハンパなかった。
[匿名さん]
甲子園で代打でホームラン打った選手いなかったっけ?
[匿名さん]
1997年だね。名前は忘れたが、ラグビー選手のような体格でした。
[匿名さん]
2度の甲子園はいずれも水戸商業を倒した。井川を攻略した1997年の決勝戦は印象に残っている。
[匿名さん]
1987年は強打のチームで甲子園出場のチャンスだったが、準決勝で常総学院に完敗。
[匿名さん]
幼い頃に見たな〜、佐藤謙選手のバックスクリーンへの本塁打。
[匿名さん]
佐藤謙選手は入学後一年生で公式戦初打席でホームラン。その後夏の大会でもホームラン2本打った。すげー一年生が出てきたなと思った。
[匿名さん]
佐藤選手のバッティングはとても一年生には思えなかった。
[匿名さん]
統合寸前?
昔は甲子園いったりしてたけど今じゃ単独でチーム組めないほど部員いないみたいだ。
[匿名さん]
昔は強かったんだけどな
今や部員9人すらあつまらなくなっちまった
[匿名さん]
桜の牧行く前の海老沢監督の頃だろ
部員が厳しい所にこそ実績ある監督行かせるべきだと思うけどね
[匿名さん]
1980年代のユニフォームはグレー。加茂川で甲子園出た時は白のユニフォームで試合した。
[匿名さん]
S59年〜 当時1年の高瀬吉夫がセミってあだ名の男の先生を殴って退学に … 後は同年の生徒数人が挨拶無いと先輩に男子トイレに呼び出され、一番来るのが遅かった〇谷喜一がボコボコにされ新聞に載った! 県立は怖いな …
[匿名さん]
茨城東野球勝ってるやん!
潮来、神栖、波崎柳川、茨城東合同だけど凄いじゃーん!
[匿名さん]
甲子園出場校、一時選手1人だけ 「甘ったれてんじゃねーよ」支えに
「ランナー二塁! ライトいくぞ!」
放課後の茨城東グラウンド。監督の大友泰河(24)が声を張り上げる。ライトを守る女子マネジャーから「はーい!」と元気な声が返ってくる。ノックをしながらの走塁練習が始まった。
試合を想定した走塁練習すら、茨城東にとっては難しいことだった。1983年と97年、夏の甲子園に出場した実績のある学校だ。しかし現在、選手は2年生1人、1年生3人の計4人。昨夏の茨城大会後は1人になってしまった。
それでも、マネジャーの信田有紀奈(3年)は練習を支えてきた。
「1人の練習がつらくて、部活をやめたいと思ったこともあった」と、木野内海澄(2年)は打ち明ける。ボールを使う練習ができず、80メートル走や五段跳びなどの練習メニューをこなしていると、信田が加わってくれた。「一緒にやってくれたことで頑張ろうと思えた」と振り返る。
「(木野内の)専属マネジャーみたいだった」と言う信田。ふとした時に読み返したのは、高校野球ドットコム編集部が著した「野球ノートに書いた甲子園4」だった。信田が野球を始めたきっかけでもある4歳上の兄が持っていた本で、中学3年のときに初めて読んだ。
甲子園を目指す球児らが書いている「野球ノート」を題材に取材を重ねたもので、全国の強豪校で奮闘する球児の悩みや決意を垣間見ることができる。
今春、新入部員を迎えたころ。本をめくっていて、ある言葉が心に刺さった。
「甘ったれてんじゃねーよ」
夏の甲子園に3度出場したことがある日大鶴ケ丘(西東京)の副主将がノートに記した一言だった。自分自身を叱咤(しった)激励するための言葉だったが、信田には「今の茨城東にも当てはまる」と感じられた。
守備でミスをすると、自信なさそうにおどおどしたり、「ダッシュ5本!」とメニューを告げると「えー?」と声を上げてみたり。強豪校との力の差は大きいが、「やるべきことをやらずに負けるのは違う」と考え、新入部員を迎えた今春以降は声かけを丁寧にした。すると唯一の2年生木野内も、外野ノックで進んで1年生に守備位置の指示を出すようになるなど、練習に真剣味が増してきた。
[匿名さん]
マネジャーをやりながら、大好きな野球をプレーできたらうれしい。そう考えて、信田は2年前の春、部に入った。唯一の3年生だが、気負いはない。
4月からは主将を務めている。新入生向けの部活動紹介では自らキャッチボールをして見せた。「言葉よりも伝わるから」と、信田が提案した。その結果、選手3人が入部してくれた。監督の大友も「信田が外野の守備をしてくれるから、選手4人全員が実戦を想定した練習に集中できる」と頼りにしている。
茨城東は、夏の茨城大会に神栖、潮来、波崎柳川と連合チームを組んで出場する。初戦は11日、古河一と対戦する。信田は最後の夏、記録員としてベンチから支える。「甘ったれ」だった後輩たちが成長した姿に声を張り上げ、公式戦初勝利を飾りたい。そして、このチームを後輩たちに引き継ぎたい。そう考えている。
[匿名さん]