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そう語りかけられると、Aは犯行をあっさりと自供し始めた。この時にB、C、D、E、F、Gの名前を挙げた。
翌18日、有平君の葬儀があった日、7人の少年が傷害監禁致死の容疑で逮捕された。
Aの自供と共に、他の6人の少年も各々全面自供を始めるが、早くも1月25日、供述を翻す少年が現れ始める。有平君のいじめでは、いつもまず先行して殴っていたEだ。
「今まで言った事はすべて嘘です。実は児玉君の顔もよくわかりません」
「僕は児玉君に何もしていません。あの日、Bコートの方には1歩も入っていません」
弁護士との接見で、Eは全面否認に転じていた。
「東京の弁護士をつけたから、もう大丈夫」
「いい弁護士つけたから、大手を振って歩けるようにしてみせる」
「絶対に孫を無罪にして見せる」
同じ頃、少年の家族からは、こういった声が聞こえてくるようになった。
日弁連の「子どもの権利委員会」に所属する人権派弁護士が乗り出してきたのもこの頃である。その後、「山形明倫中裁判・無実の元少年たちを支援する会」なる組織も結成され、いじめ・暴行事件と冤罪との間で争われることとなる。
Eの否認を受けて、他の少年達も次々と供述を覆していく。加害少年の弁護団は、「児玉有平くんは、ひとり遊びをしていて自分からマットに入って死んだ」という事故説をたてる。やがて、体育館で有平君と少年達を目撃していた元・生徒の中には「あれは嘘でした」と言い始める者も出てきた。当時、体育館にいた50人ちかくの生徒たちもほとんど「知らない。見ていない」と非協力的だった。結局、少年1人を除く6人が否認。
山形家裁が3人を監護措置、3人を不処分にする。監護措置となった3人が直ちに抗告する。仙台地裁では、一審を棄却し今度は「7人全員関与」の判断をした。そして上告を受けた最高裁でも二審判決が指示され、7人全員の事件の関与が確定した。
しかし2002年3月の損害賠償請求では、山形地裁の手島裁判長が事件性はまったくないものとして無罪を言い渡している。(後に仙台高裁で有罪判決)