870
2023/11/26 14:42
爆サイ.com 南東北版

サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
合計:
報告 閲覧数 3750 レス数 870

#6212020/08/23 22:16
■歴代監督

・熊代正志
・菅慎


■主な結果・タイトル

◇リーグ戦
中国サッカーリーグ
優勝(6回):1992, 1999, 2002, 2003, 2004, 2017
準優勝(7回):1993, 1994, 1995, 2000, 2001, 2018, 2019

◇カップ戦
全国地域サッカーリーグ決勝大会
優勝(1回):2004
全国社会人サッカー選手権大会
優勝(1回):2016
岡山県サッカー選手権大会(兼天皇杯岡山県予選)
優勝(13回):1985, 1986, 1988, 1991, 1996, 1997, 1998, 1999, 2004, 2005, 2006, 2007, 2009
準優勝(7回):1981, 1989, 2000, 2008, 2013, 2014, 2015


■スタジアム

中国リーグ時代は以下の通り。

倉敷市水島緑地福田公園陸上競技場(倉敷市)
倉敷市水島緑地福田公園サッカー場(同)
倉敷運動公園陸上競技場(同)
岡山県総合グラウンド補助陸上競技場(岡山市北区)
神崎山公園陸上競技場(同東区)
灘崎町総合公園多目的広場(同南区)

JFL時代は5000人以上収容スタンドが求められていたこともあり、公式戦会場は以下の通り。

本拠地 : 岡山県笠岡陸上競技場(笠岡市)
準本拠地 : 岡山県美作ラグビー・サッカー場(美作市)
準本拠地 : 岡山県総合グラウンド陸上競技場(岡山市)
準本拠地 : 福山市竹ヶ端運動公園陸上競技場(広島県福山市)


■関連項目

◇三菱水島製作所内のスポーツチームを起源とするクラブ

・三菱自動車倉敷オーシャンズ
・三菱自動車水島ラグビー部


◇他の三菱グループ内のサッカークラブを起源とするクラブ

・三菱重工長崎サッカー部
・浦和レッドダイヤモンズ(旧三菱重工業サッカー部)
・ギラヴァンツ北九州(旧三菱化成黒崎サッカー部)

[匿名さん]

#6222020/08/26 00:25
SRC広島(エス・アール・シーひろしま)は、広島県広島市を拠点に活動するサッカーのクラブチームである。


■原語表記
Soccer Representative Club広島
■呼称
SRC広島
■愛称
SRC
■クラブカラー
 赤
■創設年
1953年
■所属リーグ
中国サッカーリーグ
■ホームタウン
広島県広島市
■ホームスタジアム
庄原市上野総合公園陸上競技場
廿日市市サッカー場
真田グラウンド
ゼロ・バランスサッカーフィールド
◇収容人数
1,001(庄原上野)
■代表者
森脇誠司
■監督
菊地功


創部時は「広島教員サッカークラブ」の名前の教員のクラブであったが、現在はさまざまな職種で働く選手が在籍している。2011年から現名に変更。公式発表において「SRC」とは、Soccer Representative Club(「広島を代表するサッカークラブ」の意)の頭文字を取ったものである。

[匿名さん]

#6232020/08/26 00:26
創設年は1953年、学校教員のクラブとして設立した。なおこの年から国体サッカーに教員部門が創設されている。当時はサッカーに関する情報が圧倒的に少なかったため、このクラブはプレーする場としてだけでなく、指導レベル向上のため各教員が情報を持ち寄り情報交換する場としても機能した。これにより小中高校での指導レベルがあがり、その教え子が関東や関西の強豪大学や全国の実業団に進み、1960年代にはさまざまなチームで中核となり、さらには1968年メキシコシティオリンピック銅メダル獲得に貢献することとなる。

1966年から始まった県リーグには初期から参加、1973年から始まった中国サッカーリーグに初期から参加した。1977年に県リーグ降格、1985年から再び中国リーグに昇格を果たす。1986年・1987年と2年連続で2位となり、全国地域リーグ決勝大会に2度出場した。1992年に再び県リーグに降格、1996年に中国リーグに昇格。 2002年に3度目となる、県リーグに降格。ちなみにこの間、中国リーグでは優勝はない。その後は教員選手は減っていった。

また、1996年には全広島サッカー選手権大会決勝で広島経済大学を破り優勝、同年に行われた第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会に広島県代表として出場した。ちなみに、1933年の第13回ア式蹴球全国優勝大会に「広島教員」の名前のチームが出場しているが、現在のこのチームではない。

[匿名さん]

#6242020/08/26 00:27
2011年、広島市安佐南区沼田町で中古車販売業を営む株式会社エス.アール.シーが母体となり、現名の「SRC広島」に変更した。2012年、中国地域県リーグ決勝大会を勝ち抜き、11年ぶりに中国リーグ昇格を果たした。

2014年、全広島選手権に優勝し、第94回天皇杯全日本サッカー大会出場

2016年、全広島選手権に優勝し、第96回天皇杯全日本サッカー大会出場。中国リーグ初優勝。

2017年、全広島選手権優勝。


■タイトル
リーグ戦
中国サッカーリーグ:2回
2016年、2019年

■脚注
SRC広島11年ぶり挑戦 サッカー中国L6日開幕”. 中国新聞 (2013年4月3日). 2013年4月3日閲覧。

■参考資料
“広島教員サッカークラブ”. 中国放送 (2006年10月8日). 2014年9月15日閲覧。
『サッカーマガジン』、ベースボール・マガジン社、1979年4月25日。

[匿名さん]

#6252020/08/27 18:17
#爆サイで夢をかなえる!

[匿名さん]

#6262020/08/30 00:02
佐川急便中国サッカー部(さがわきゅうびんちゅうごくサッカーぶ)は、広島県(中国地方)を拠点とする、佐川急便中国支社実業団サッカー部である。


■原語表記
佐川急便中国サッカー部
■クラブカラー

■創設年
1989年
■所属リーグ
広島県社会人サッカーリーグ
■所属ディビジョン
1部
■ホームタウン
広島県広島市
■ホームスタジアム
広島スタジアム
揚倉山健康運動公園
吉田サッカー公園
庄原市上野総合公園
廿日市市サッカー場
■監督
廣田将久


■クラブの概要

1989年:佐川急便中国支社内でサッカー同好会として活動を始める。
1995年:第1回佐川急便全国サッカー大会に出場するため、正式に佐川急便中国支社サッカー部として認可。
1997年:広島県のシティーリーグ参加。
2001年:広島県リーグ3部に初参加。初優勝で2部昇格。
2002年:広島県リーグ2部に初参加。初優勝で1部昇格。
2003年:広島県リーグ1部に初参加。初優勝で中国リーグ入れ替え戦出場し勝利、中国社会人リーグ昇格。
2005年:チーム名から支社をとり「佐川急便中国サッカー部」に。中国社会人リーグ優勝、全国地域リーグ決勝大会ではグループリーグ敗退。同年全広島サッカー選手権大会優勝。
2010年:全広島サッカー選手権大会優勝。

[匿名さん]

#6272020/08/30 00:03
■タイトル

◇リーグ戦
中国サッカーリーグ:2回
2005年、2009年
◇天皇杯
出場2回(2015年現在)


■関連項目

SAGAWA SHIGA FC
佐川急便東京サッカー部
佐川急便大阪サッカー部
SP京都FC (旧・佐川印刷SC)
ヴォロンテールFC (旧・佐川コンピューター・システムサッカー部)

[匿名さん]

#6282020/08/30 19:41
>>433
枚方市と京田辺市は隣同士

[匿名さん]

#6292020/08/31 09:48
>>628
お構いいただき、書き込み者もお喜びですかね。

ベルガロッソ浜田はCSL特別レギュレーション初戦、勝利のようです。

[匿名さん]

#6302020/09/02 01:25
☆★まりびと | コラム | 木村 和司 | 横浜F・マリノス 公式サイト★☆

2019.04.26

TEXT BY
二宮 寿朗


□■すべては木村和司から始まった。「加茂さんのおかげよ。あの人がおったからよ■□


一枚の写真がある。

鹿島アントラーズ戦を盛り上げる企画「The CLASSIC」の一環で用意されたポストカード。F・マリノスの「10番」を引き継いだ天野純をバックに、25年前産声を上げたばかりのJリーグでキックを放つ木村和司の姿がモノクロで浮かび上がっている。

樽のような丸々としたぶっとい太腿は、はち切れんばかりだ。トランクスがやけに小さく見える。


60歳になったレジェンドは試作用のポストカードを手にした筆者の声を聞いたのか、つぶやくようにして言う。

「1日、何本くらい蹴りよったかの。遊びで蹴って、シゲ(松永成立)を呼んで。200本、300本……。蹴っとったら、自然とそれくらいの数にはなるんよ」

口数の多くない剛健の人は、決して努力とは言わない。
蹴り込んだその「証」から、人々を魅了するキックは放たれた——。

38年前、日本にまだプロサッカーがなかった頃。
明治大学在学中に日本代表でも活躍していた木村には日本サッカーリーグ(JSL)の各チームから多くの声が掛かっていた。プロ契約に近い読売クラブに惹かれたものの、最終的には2部に降格した日産自動車を選んだ。結婚が決まっていたために、妻の両親に安心してもらいたいという思いもあった。しかし何よりも加茂周監督の存在が大きかったという。

[匿名さん]

#6312020/09/02 01:26
「加茂さんと一緒に食事をしたとき、『面白いサッカーをしようや』と誘われて。これからチームを強くするぞっていう強い意志が凄く伝わってきた。2部とか1部とか、そこは関係なかった。話の持っていき方が、あの人はとにかくうまいんよ(笑)」


ゴールにこだわる攻撃サッカー。

加茂監督に口説き落とされて、日産自動車に入社する。この名キッカーの加入が、日産自動車サッカー部の転換点となる。新たな歴史の始まりであった。当時は当然ながら社業とサッカーを両立しなければならなかった。

新入社員の木村は人事部に配属され、朝8時に出社して昼まで仕事をしていた。寮に戻って昼食を取り、午後2時からトレーニングに励んだ。部には県立広島工業高校の先輩、金田喜稔がいた。2人の活躍もあってチームは1年で1部に復帰。新日鉄との入れ替え戦で、木村は直接FKを叩き込んでいる。早くもチームの大黒柱になっていた。この年に、サッカー専用の獅子ヶ谷グラウンドが完成した。

「画期的やったね。クラブハウスがあってトレーニングルームや、一人ひとりのロッカーもある。当時は珍しいというか、ここまでそろっていたのってほかにはなかったんじゃない? それもこれも加茂さんの力よね。会社と交渉して、選手が必要と思うのはそろえてくれた。新幹線でグリーン車移動というのも加茂さんのおかげ。選手のことを、一番にいつも考えてくれた」


忘れられないのが、鉄骨を組み立てた〝壁〟だ。フリーキック練習用のダミー人形などなかった時代に、加茂がわざわざ木村のために特注でつくらせたものだった。

[匿名さん]

#6322020/09/02 01:27
「下に車輪がついとるんやけど、鉄だから重いんよ。あれを引っ張り出すのが大変。でもあ りがたかった。あれでうまくなったようなもんよ」

練習自体は「厳しかった」。しかし練習が終わったら「遊び」が待っていた。日が暮れるまでボールを蹴った。一日ごとにうまくなっていく自分を感じることができた。同時に新たな欲も生まれる。もっとうまくなりたい。

3年目の1983年には水沼貴史、柱谷幸一ら続々とタレントが入団してきて、チームはついに天皇杯を制覇する。創部11年目にして初めてのタイトルだった。木村自身、日産時代の一番の思い出はこの優勝だという。

「清水(秀彦)さんをはじめ、みんな日本一を目標にしてきたから。貴史とか加茂さんがいい選手を連れてきてくれて、より『面白いサッカー』がやれるようになったんでね。あのときはうれしかったな。ワシにとっても、サッカー人生で初めての日本一だからな」

木村は1983、1984年とJSLで2年連続のリーグMVPに輝いている。右ウイングのポジションを中盤に移し、多彩なパスで味方を活かした。逆に中盤から右ウイングに移った金田とは「名コンビ」と言われた。

[匿名さん]

#6332020/09/02 01:27
■正社員から契約社員に切り替えてもらった。保証よりも勝負を求めた。


イマジネーションとコンビネーション。

プレーしているほうも、観ているほうも「面白いサッカー」。しかし、ただ面白いだけではない。「勝つ」と「面白い」を両立させる。加茂の目指したもの、木村が志向したものが、ドンドンと発展していく。
入社して4年後、サッカーに専念したいという気持ちから正社員から契約社員に切り替えてもらった。保証よりも勝負を求めた。

「正社員じゃなくなるのは大変かもしれん。でも外国人選手と同じように『ワシもそうさせてください』って会社にお願いして、デニーズで契約したことを今でも覚えとる。これも加茂さんが会社に働きかけてくれた。今のプロで言えば、最低ラインくらいの給料やったと思うよ。でもサッカーでメシを食うっていう覚悟はできたね」

あの〝伝説のFK〟で知られる1985年メキシコワールドカップ、アジア最終予選の韓国戦に敗れたことが、日本サッカーにプロ化の動きが始まる。木村は奥寺康彦に続いて事実上のプロ契約「スペシャルライセンスプレーヤー」を勝ち取った。
プロとして魅せるプレーをしなきゃいけない。素晴らしいプレーをしなきゃいけない。自分が活躍することで、プロの道を加速させていかなきゃいけない。
この使命感が、逆にプレッシャーとなって木村の背中に重くのしかかった。

「いいプレーしようって思ったら、体が思うように動かんし、プレーも全然ダメよ、自分を出す〝我が、まま〟を出せないでいた。(ストレスで)太ったりということもあったしな」

[匿名さん]

#6342020/09/02 01:28
重い荷物を降ろすことにした。
余計なことを考えず、サッカーを楽しく、面白く。
その後、日産自動車は88〜89年シーズン、89〜90年シーズンとJSL、天皇杯、JSLカップの3冠を2年連続で達成する。木村もリーグMVPを獲得し、日産黄金期の象徴であり続けた。


円熟期に入っていた木村に、目指すものができた。Jリーグが生まれることになったのだ。

「個人でプロになっても、やっぱりプロのリーグというものを自分の目で見ておきたかったし、経験したかった。それで現役選手として長生きできたところはある。ワシらは元々、お客さんに来てもらおう、お客さんに喜んでもらおうとやってきたから」

「面白いサッカー」でタイトルを取り、強豪と呼ばれるようになった。その日産自動車サッカー部を基盤にした横浜マリノスの船出に、自分がかかわるということが己の使命だと思えた。
1993年5月15日、東京・国立競技場。Jリーグのキックオフを告げるヴェルディ川崎との開幕戦に、木村は34歳でピッチに立った。


「あんなにお客さんが入るなんて、つい数年前までは考えられんことやったから感慨深いものはあったよ。みんなよう走っとったよな(笑)。ボールは全然、外に出んし。今見ても、当時のサッカーは面白かったと思うよ」

翌1994年シーズンを最後に引退を決断する。
サッカーをやり切って、体力を使い切ったはずだが、「もっとうまくなりたい」と語った引退会見はサッカーに真摯に向き合ってきた木村らしくもあった。

[匿名さん]

#6352020/09/02 01:29
あの日「面白いサッカーをやろうや」と誘われていなければ、違うサッカー人生が待っていたのかもしれない。木村は、日産自動車サッカー部に縁をくれた加茂に感謝する。

「ほんと、加茂さんのおかげよ。あの人がおったからよ」

それ以上の言葉は必要ないと言わんばかりに、頷くような仕草を繰り返した。

1972年の創部以来、多くの人がかかわり、積み上げてきて今の横浜F・マリノスがある。
加茂がいて、木村がいて、すべてのOBがいて——。

一枚の写真が伝えていること。

うまくなれ、楽しめ、勝て。
樽のようなぶっとい太腿が、それを伝えている。


■二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人〜松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル—の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

[匿名さん]

#6362020/09/06 01:06
☆★ サッカーマガジンWEB★☆


□■初の日韓プロ対決で見えた差。82年の読売クラブ【連載◎J前夜を歩く第8回】■□

2020-03-17
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第8回は1982年の読売クラブと日本サッカーの状況について綴る。

文◎国吉好弘



■韓国は1983年にプロ化

 韓国のプロサッカーリーグはJリーグに先んじること10年、1983年にスタートしている。さらにその2年半前には最初のプロクラブであるハレルヤが誕生。韓国のプロテスタント系キリスト教「ハレルヤ協会」を母体に、国内のサッカーレベルの向上とキリスト教の布教を目的に結成された。

 まだ国内でプロリーグが始まっていない時期には、世界各国のプロチームと親善試合を行なって興行を実施しており、82年2月、日本の「プロ(を目指し、実際にそういった側面もすでにあった)」チーム、読売クラブとの対戦が実現した。

 このときのハレルヤは、MF李栄武(イ・ヨンム)を中心に元韓国代表のベテランを中心とし、プロになることで84年ロサンゼルス・オリンピック出場を目指す韓国代表でのプレーを諦めたGK趙炳得(チョ・ビョンドク)らの若手も含まれた強力な陣容。監督はかつて日本代表としてベルリン・オリンピックに出場した金容植(キム・ヨンシク)だった。


 2月は例年、国立競技場が使えない時期ということもあり、会場は同じ読売ではあるものの、プロ野球の巨人のホームスタジアムである後楽園球場だった。すでに人工芝が敷き詰められていた野球の聖地を間借りして行なわれている。

[匿名さん]

#6372020/09/06 01:06
読売クは日本リーグ(JSL)1部昇格から4年目を迎えた前シーズンに、リーグ、天皇杯とも準優勝と、タイトル獲得まであと一歩のところまで迫り、存在感を高めていた。

 ブラジル育ちのジョージ与那城、ルイ・ラモス(この時は負傷で欠場)、トレドを軸に、クラブで育った小見幸隆、松木安太郎、戸塚哲也、都並敏史など日本代表にも選ばれる選手たちでブラジルスタイルのサッカーを展開し、JSLでも異彩を放っていた。



■スコア以上に痛感させられたもの

 当時でも注目度の高かった試合には、2万2000人の観客が集まった(2月28日13時にキックオフ)。立ち上がりはハレルヤが主導権を握り攻め込む。16分には戸塚からボールを奪って金喆用(キム・チョルヨン)が決め、先制。さらに30分にも申鉉浩(シン・ヨンホ)が強烈なシュート、これはGK中山良夫にはじかれたが、こぼれを李栄武が決めて2-0とした。

 しかし、後半に入ると流れが変わる。前半、失点のきっかけとなってしまった戸塚が奮起し、FKからのこぼれを左足で20メートルの距離から決めて1点差に詰め寄る。さらにその2分後には相手のハンドでPKを得て、追いつく絶好のチャンスを迎えた。だが、浜口和明のキックはGK趙炳得に阻まれてしまう。

 その後も読売クが押し込んだのだが、結局追いつくことはできずにタイムアップ。本物のプロとプロを目指すチームの差が出たか、ハレルヤの勝利で終わった。

 試合後、ハレルヤの金容植監督は「PKが決まっていたら負けていたかもしれない。読売クの後半の攻撃は素晴らしかった。与那城など技巧派選手が多いのに驚いた」(翌日の読売新聞より)と読売クのプレーを称えていた。だが、スピードと力強さに優るハレルヤの勝利は順当と言えた。1-2のスコアと結果は、そのまま当時の日本と韓国の差を表していた。

[匿名さん]

#6382020/09/06 01:07
 翌年に韓国はプロリーグをスタートさせた。85年にはメキシコ・ワールドカップ出場を懸けて両国が最終予選を戦い、日本はホームで1-2、アウェーで0-1と連敗。スコアの上では接戦ながら内容的には完敗だった。その敗戦の衝撃から森孝慈日本代表監督がプロ化の必要性を痛感して、少なくとも自分の立場をプロ化するように日本協会に直談判する。しかし、時期尚早と跳ね返された。

 93年にJリーグが創設され、両国の差は急速に縮まることとなった。ただ、ライバルがプロ化してからおよそ10年という月日を費やさなければならなかったのも、事実である。

[匿名さん]

#6392020/09/09 00:59
☆★ サッカーマガジンWEB★☆


□■あのハンス・オフトが率いた1986年のマツダ◎J前夜を歩く第19回■□

2020-06-10
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第19回はあのハンス・オフトが監督に就任したマツダについて綴る。

文◎国吉好弘



■3シーズンぶりの1部復帰

 1986年10月25日、「プロ元年」とうたわれた86-87シーズンの日本サッカーリーグ(JSL)1部が開幕。翌日は5試合が各地で行なわれ、東京の西が丘サッカー場では優勝候補の一角であったフジタ工業と、この年2部から復帰してチーム名も新しくなった元東洋工業の、マツダサッカー部が対戦した。

 前シーズン4位のフジタは日本代表のFW手塚聡、谷中治など既存のメンバーに、のちにはブラジル代表にも入るMFカルロス・アルベルト・ジアスらを新しく加え、充実した戦力を誇っていた。一方マツダは、1960年代に5度の優勝を遂げていたとはいえ、70年代から80年代にかけて成績は低迷し、84年からは2シーズンをJSL2部で過ごしている。3シーズンぶりの復活で、まだまだ上位陣を脅かすとは考えられていなかった。

 ところが、試合の主導権を握ったのはマツダだった。豊富な運動量と激しいプレスでフジタに自由を与えず、奪ったボールを素早く攻撃につなげる。前線のターゲットマンとなった英国人グラハム・ノーリーの高さと、高橋真一郎のスピードで相手ゴールを脅かした。42分にはFKからノーリーがヘッドで落としたボールを、高橋が押し込んで先制する。

[匿名さん]

#6402020/09/09 01:00
後半に入ってもマツダの運動量は衰えず、フジタのジアスが素晴らしいテクニックを発揮するものの、GKディド・ハーフナーの好守もあって得点は許さない。1-0のまま進んだ83分には、オフサイドトラップの裏を突いて抜け出したノーリーがフジタGK横川泉に倒されてPKを獲得。これを高橋が決め、2-0として快勝した。

 この開幕戦で観客を、そして当時多いとは言えなかった報道陣を驚かせたチームを率いたのが、ハンス・オフトだった。周知のように、のちに日本代表を率いて92年のダイナスティカップ、アジアカップを初制覇。アメリカ・ワールドカップ予選では『ドーハの悲劇』に阻まれ、あと一歩で出場を逃したオランダ人指導者だ。

 日本とのつながりは、1976年に日本高校選抜がヨーロッパ遠征をした際に指導したのが始まり。82年にはJSL2部のヤマハ発動機が短期のコーチを依頼し、同年の1部昇格、さらには天皇杯優勝を果たすという快挙に大きく貢献した。

 そして84年に2部に降格したマツダを立て直すために、今西和男監督がコーチとして招へいする。オフトの肩書はコーチながら実質的にチームの指揮を執り、今西監督はマネジメントに徹する体制をとって、85年に1部復帰を決めた。そして前述のプロ元年と言われた86年は、オフトが肩書も監督になって臨んだ初めてのシーズンだった。

[匿名さん]

#6412020/09/09 01:01
■聞きなれない言葉の数々

オフトがマツダにたたき込んだのは、主に戦術面といってよかった。個人、グループ、チームとして果たすべき役割、プレーを整理し、徹底してゲームで実行させた。それはサッカーの本場であるオランダをはじめとしたヨーロッパでは当たり前のことながら、当時の日本ではおろそかにされていた部分。オフトは「ディシプリン(規律)」という言葉でチームに浸透させた。

 フジタ戦の試合後の会見でも「チームにとって重要なのはディシプリン」だと熱弁をふるったが、当時はまだ聞き慣れない単語として筆者をはじめ、居合わせた報道陣の脳裏に深く刻まれたのだった。「スリーラインをコンパクトに」「トライアングルを作る」「アイコンタクト」「コーチング」など、のちの日本代表監督時代に定着させた単語も当時から使っており、チームの方向性を定める手腕は秀逸だった。

 オフトは技術的にはアジアでも上位に迫っていた日本代表にも確かな戦術意識を植え付け、アジアの頂点に導いた。その原型が、この日のマツダにあった。

[匿名さん]

#6422020/09/10 11:44
ビッグクラブでも、ここまで執着心があるコアサポはなかなかいない。光栄なことのように錯覚してしまうし、哀れの一言。

[匿名さん]

#6432020/09/13 00:09
☆★ サッカーマガジンWEB★☆


□■初優勝を果たした1972年の走る日立【連載◎J前夜を歩く第12回】■□

2020-04-21
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第12回は、2冠を達成した「走る日立」について綴る。

文◎国吉好弘


■チームを変えた高橋英辰監督

 1972年の日本リーグ(JSL)で初優勝を果たした日立製作所のことを語るとき、必ず登場するキャッチフレーズが「走る日立」だ。当時テレビ放映の事前取材に訪れたNHKの鈴木文弥アナウンサーが、練習を見て感じた特徴を実際に中継でも使ったことで広まった。

 チームの指揮を執った高橋英辰監督は、まさにそういったチームづくりをしており、当時学生だった私も観客の一人として実際にスタンドから見て、またテレビで放映された試合を眺めても、相手チームより走っている印象は確かにあった。

 高橋監督はJSLが始まる以前にも日立を率いて、日本のトップレベルに引き上げた人だが、日本代表監督を務めるなど日本協会の仕事のために一度は退いていた。しかしJSLが創設されると日立は、最初のシーズンとなった1965年は4位だったが(全8チーム)、66年は5位、67年は6位で、68年には7位となり、社会人の上位チームと入れ替え戦を戦わなければならなくなる。


 まさにじり貧状態のチームを立て直すため、69年のシーズン途中に監督として復帰を要請された。

[匿名さん]

#6442020/09/13 00:10
 その手腕は確かで、会社と交渉して練習時間を大幅に増やし、グラウンドなどの設備を整え、選手補強も行なった。69年こそ途中からの采配だったこともあり、再び7位にとどまったが、翌70年には一気に3位に引き上げる。71年は4位と一つ後退したものの、72年には連覇を狙った本命のヤンマーに競り勝ち、最終節で優勝を決めたのだった。

 さらにこの年、オープン化した天皇杯(前年まではJSLと全国大学選手権の上位4チームずつ、8チームによる争いだった)でも、73年元日の決勝でヤンマーを2-1で下し、2冠を達成している。



■オシム千葉の40年前に考えて走った

高橋監督はチームの立て直しにあたって、その方針と選手への要求を以下のように振り返った。

「1年目は自分のチームとよそのチーム状況を知ることに終始。その中から、まず走らなければ、とても技術的な差はカバーできないと考えた。2年目はバカに思えてもいい、ただ遮二無二走れ。3年目は正確なパスを要求して『ボールも走らせよ』。そして4年目は効率の良さを目指して『頭を使って走れ』と求めた」

「まず走れ」「頭を使って走れ」といった言葉を、どこかで聞いたと感じる人は多いのではないだろうか。40年後にJリーグでジェフユナイテッド市原(現・千葉)の監督に就任し、やはり下位にくすぶっていたチームを優勝争いに加わるまでにした、イビチャ・オシムのそれと酷似しているのだ。飛び抜けたスタープレーヤーはおらず、身体的、フィジカル能力にも秀でていないチームだったところも同様だった。

[匿名さん]

#6452020/09/13 00:10
 高橋監督は、日本中から称賛を浴びたオシムのチーム再建を、この時代にやってのけた。しかもリーグ、カップの2冠を手にしている。

 当時のサッカーマガジン(1973年1月号)に、毎日新聞の荒井義行記者が日立の優勝を分析して、以下のような文章を残している。

「今シーズンの日立の強さとか、長所と言われたものを列挙してみよう。よく走る。攻守の切り替えが早い。ボールを持たないプレーヤーがよく動く。FWの守備、BK(バック=DF)の攻撃参加。出足が良い…など」

 ハードワーク(よく走る)、攻守の切り替えの早さ、オフ・ザ・ボールの動き、全員守備・全員攻撃、素早いボールへの寄せ——。表現は変わっても、現在のサッカーで強調される点ばかりだ。

 さらに荒井氏は、この後に「サッカーの教科書を開けば必ず書いてある、基本的なことばかりだ」と綴っている。一つひとつの要素のスピード感や精度は大きく進化しているが、やはり原則は変わらないということだろう。

[匿名さん]

#6462020/09/13 21:49
#爆サイで夢をかなえる人のスレッドとなりました。

[匿名さん]

#647
この投稿は削除されました

#6482020/09/16 01:37
 1978年に加入した日本鋼管でも1年目は3得点、2年目は6得点を挙げたもののチームは10チーム中9位で、入れ替え戦に敗れて2部降格。82年に1部へ帰り咲くが、また1年で2部へ降格した。それでも、この頃から松浦はストライカーとして大きく成長し、武器だった高さも活かせるようになる。

 チームも力をつけて83年JSL2部で優勝、再び1部復帰を決め、松浦も18得点で得点王に輝く。2部で得点王となった選手が、1部でも得点王になるのは初めてのことだった。

 1部に復帰した84年は8位に終わり、1部の壁を感じたが、翌85年には松浦が10得点、同僚の藤代伸世も11得点を挙げ、チームも2位に躍進する。そして迎えたのが、冒頭に記したように『秋-春制』となった86-87年シーズンだった。

 松浦は腰の持病でコンディションが万全ではなく、開幕戦はベンチスタート。それでも第2節、アウェーでのヤンマー戦で先発出場すると、31分に藤代のクロスをヘッドで合わせて先制点。さらに2点を追加してハットトリックを達成、3-2の勝利の立役者となった。

[匿名さん]

#6492020/09/16 01:38
■ 2年連続のゴールキング

 3節、4節でもゴールを奪うと、ウインターブレイクを挟んで再開された1月31日の第7節、本田戦で2得点を挙げて得点王レースでトップを走り、チームも初優勝へ向けて突き進む。優勝を争った読売クラブと最後の最後まで競り合い、松浦もラスト3試合で連続得点するなど貢献した。しかし、最終節を終えて読売クラブと同勝ち点ながら得失点差で及ばず、日本鋼管は涙をのんだ。

 優勝を果たした読売クラブでは、清水東高を卒業したばかりの武田修宏が活躍し、この年の年間最優秀選手にも選ばれる。しかし、リーグで挙げた得点は11でランキング2位。14得点を挙げた松浦が得点王となったのだ。

翌年の『日本サッカーリーグ年鑑』に総評を記した平木隆三・日本協会技術委員長も、「ここのところ足元のプレーに巧みさを増し、安定した力を発揮するようになっている松浦くんの年ごとの成長ぶりは、各チームにとって今後も脅威となるだろう」と綴り、その成長を認めていた。

 32歳、190センチ、JSL2部に続く得点王と、異色ずくめのストライカーは、翌年も得点王となってJSLの歴史に名を刻む。だが日本鋼管はまたしても2位に終わり、その後も優勝には1度も手が届かなかった。

[匿名さん]

#6502020/09/20 00:08
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□■得点以外にも光を。1966年に導入したアシスト制【連載◎J前夜を歩く第10回】■□

【2020-04-05】
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第10回は得点を導くプレー以外に光を当てるべく導入されたアシスト制度について綴る。

文◎国吉好弘


■初代アシスト王は桑原隆幸

 Jリーグでは採用されていないが、日本リーグ(JSL)の時代には、得点となったシュートの前のプレーに「アシスト」をつけていた。JSL2年目の1966年3月29日に行なわれた評議会で以下の事項が決定された。

「1966年度のリーグの試合を記録する際にアシスト制を採用し、得点があった際に必要と思われる場合は得点者以外の者にアシストを認め、アシスト点1点を与え、試合記録に記入する。ただしこのアシストに関する記録は参考記録として報道関係者に発表する」(機関紙「サッカー」56号)

 これは、得点者だけがクローズアップされるのではなく、その前のプレーにも注目してもらおうと、加盟8チームの代表と、日本協会の竹腰茂丸理事長など3人の理事によって構成される評議員会によって提案され、実現の運びとなった。そのアイディアは、当時すでに「アシスト」を記録していたアイスホッケーからヒントを得たものと言われている。

 具体的には「アシストは得点があった場合、その得点のために行なわれた直接のプレーに関係した者にのみ認められる。またそのプレーは得点となるまでのプレーのうち、得点からさかのぼって2つ以上前のプレーには認められない」と規定された。

[匿名さん]

#6512020/09/20 00:09
例えばスルーパスで抜け出してのシュートが決まったときのスルーパスを出した選手、クロスをヘディングで決めたときのクロスを上げた選手、シュートが一度GKに阻まれたこぼれを押し込んだ場合の初めにシュートを打った選手などにアシストがつく。また、クロスが上がり、これをヘディングで落としたボールをシュートして決めた場合には、クロスを上げた選手とヘディングをした選手の二人にアシストがつくと定められた。

 こうして始まった66年JSLでは、優勝した東洋工業のMF桑田隆幸が8アシストを記録して、第1回のアシスト王となった。アシスト王にはこの第1回から日刊スポーツ紙によって「シルバーボール賞」(得点王にはゴールデンボール賞)が贈られた。

 前記のように当初「参考記録」と但し書きがあったものの、形として残る賞になったことで公式な記録となった。そしてJSLが終了する92年まで続けられることになる。


■二代目は川淵三郎

 1967年の第3回JSLでアシスト王に輝いたのは川淵三郎(古河電工)、のちのJリーグチェアマンだった。翌68年には、この年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得した日本代表でも、多くのゴールをアシストした杉山隆一(三菱重工)がJSLでも初のアシスト王となり、翌年も連続で受賞した。

 その後も宮本輝紀(70年、八幡製鉄)、吉村大志郎(72年、ヤンマー)、今村博治(75年、ヤンマー)、永井良和(76年、77年、81年、古河)、ジョージ与那城(79年、80年、83年、読売クラブ)などが受賞。自ら得点を挙げるよりMF、あるいはウイングとして、ゴールをお膳立てする選手にスポットが当てられた。

[匿名さん]

#6522020/09/20 00:10
ただし、26年の通算で最も多くのアシストを果たしたのは、得点数でも断トツ1位(202得点)の釜本邦茂で79アシストだった。釜本は特別として、2位は永井、以下3位ラモス瑠偉(読売ク)、4位与那城、5位吉村とパサー、あるいはクロサーが並び、そういった役割の選手に喜び、やりがいを与えたと言える。

 アシストは現在のJリーグでもさまざまなメディアが独自の規定で記録しており、ヨーロッパでも同様に新聞、雑誌でカウントしている国もある。FIFAでもワールドカップでの得点にアシストをつけており、統一した世界基準を設けて広めてもよいのではないだろうか。


※『月刊サッカーマガジン』(げっかんサッカーマガジン)は、日本のベースボール・マガジン社(BBM)が1966年2月から刊行しているサッカー専門誌である。前身を含めて、現存する日本国内向けのサッカー雑誌としては、最古参の歴史を持っている。


■歴史

1966年: 2月に前身の『スポーツマガジン サッカー特集号』を発行、その3ヵ月後に月刊誌『サッカーマガジン』として創刊。
1975年: 隔週刊誌に移行。
1981年: 2度目の月刊化。
1992年: 2度目の隔週刊化。
1993年: Jリーグ開幕に合わせて週刊誌に移行するとともに、『週刊サッカーマガジン』に改題。
2002年: ワールドカップ日韓大会開催時のみ週2回刊で発行された。
2013年: 11月より『サッカーマガジンZONE』と改称、3度目の月刊化に踏み切る[3]。
2016年: 7月より『月刊サッカーマガジン』と改称。


■主な歴代編集長

関谷勇(初代)
堀内征一(1973年-1975年)
大住良之(1978年-1982年)
千野圭一(1982年-1998年)
伊東武彦(1998年-2004年)
平澤大輔
北條聡(2009年-2013年)
宮本恒靖(特別編集長。当時サッカー解説者。2014年1月号より)

[匿名さん]

#6532020/09/23 01:52
☆★ サッカーマガジンWEB★☆


□■古河電工12年目の初優勝と奥寺康彦の急成長◎J前夜を歩く第25回■□

2020-09-02
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第25回は古河電工の初優勝と奥寺康彦について綴る。

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン



■きっかけになったブラジル留学

 1965年に日本リーグ(JSL)がスタートした時、優勝候補に挙げられていたのは前年の天皇杯で優勝を分け合っていた古河電工と八幡製鉄だった。中でも古河にはGK保坂司、FB(DF)平木隆三、鎌田光夫、宮本征勝、HB(ハーフバック)八重樫重生、FW川淵三郎と前年の東京オリンピックに出場した日本代表選手が6人もおり、日本代表の監督を務める長沼健、66年にはチームの監督を兼任する内野正雄ら元日本代表のベテランも選手としてプレーしており、机上の戦力分析では筆頭候補だった。

 しかし実際にリーグが始まると、若い選手が多く、力をつけてきた東洋工業が第1回の優勝を果たし、さらに勢いを得て4連覇を達成する。5年目の1969年は三菱重工に覇権を譲るが、70年には5回目の優勝を果たした。さらにヤンマー、日立などが力をつける陰で、ベテランぞろいだった古河は徐々に存在感を失っていく。1965年、66年は3位、67年は2位で終えたが、1968年には5位に落ちて以後「中堅チーム」として定着してしまう。

[匿名さん]

#6542020/09/23 01:52
1970年代にさしかかると、69年に荒井公三(広島工業高)、70年に奥寺康彦(相模工大付属高)、71年には高校選手権で優勝し、劇画「赤き血のイレブン」のモデルになったことでも知られた浦和南高校の永井良和が入社。後には日本代表でも主力となる選手たちが加わり、チームは若返っていく。73年には大卒の清雲栄純(法政大)、須佐耕一(中央大)、らを加え、70年代半ばには川淵三郎監督の下、20代前半の選手が中心のチームとなった。

 それでもチームの成績はなかなか上がらず、73年5位、74年4位、75年6位と中位をさまよっていた。そして76年にはメキシコ・オリンピック銅メダリストの鎌田光夫が監督を引き継いだ。

 チームに変化が起こった一つのきっかけは、奥寺のブラジル留学だった。76年シーズンがモントリオール・オリンピック予選の関係でリーグが8月スタートとなったこともあり、1月から3月までサンパウロのパルメイラスで、トレーニングに参加した。本場での厳しさ、激しさを肌で感じて帰国すると、一回り成長した姿を見せた。もともと俊足で、体は強く柔軟、さらに技術的面では左足の強く正確なキックという武器を持っており、世界でも自分が通用する部分を確認できたことは大きかった。

[匿名さん]

#6552020/09/23 01:53
日本代表はモントリオール予選で敗れて二宮寛監督による新体制となり、奥寺も一時外れていた代表に復帰する。夏に参加したマレーシアのムルデカ大会では大活躍した。同大会は当時、アジアの代表チームのチャンピオンを決めると言える価値があった。この時の日本はチーム最年長の釜本邦茂が2列目に下がり、最前線でプレーした奥寺がゴールを量産した。日本は決勝に進出し、地元マレーシアに敗れたものの、準優勝は久々の好成績だった。そこで奥寺は7点を挙げて得点王に輝いた。



■快進撃を支えた右の奥寺、左の永井

古河に戻っても好調を維持し、ライバルに触発された永井も負けじと気迫のこもったプレーで左の奥寺、右の永井で、鎌田監督がこのシーズンに掲げてきた「スピードと激しさ」がグレードアップした。74年ワールドカップを川淵前監督とともに視察した同監督は「サッカーの本質、スピードを生かす、スピーディーな試合展開、次いで激しさ。全員守備、全員攻撃」(サッカーマガジン・77年3月10日号、一部要約)を目指した。ポーランド、オランダのサッカーをイメージしたという。

開幕から5節まで4勝1分けと好スタートを切り、一時調子を落として第14節終了時点では3位で中断期間に入る。ここでミニキャンプを張って立て直すと、年末年始に行われた天皇杯では攻撃力を発揮して決勝に進む。元日、国立での決勝でも奥寺のゴールなどでヤンマーを4−1で下し、JSL開幕前年の第44回大会以来12年ぶりとなる優勝を果たした。

[匿名さん]

#6562020/09/23 01:54
1月中旬に再開したJSLでも快進撃は続き、第15節の日立戦で1−0と勝利を挙げ首位に躍り出ると、そこから3連勝。最終戦のトヨタ戦では引き分けでも優勝が決まるという状況となる。やや硬さが出て前半は苦戦したものの、後半に奥寺がPKを決めて均等を破ると、永井のシュートをゴール前で鬼塚忠久がコースを変えて決め、2−0にして勝利をつかんだ。ついにJSL創設以来12年目にして悲願の初のタイトルを獲得。長沼、川淵ら歴代監督が鎌田監督と抱き合って喜んだ。

 奥寺はチーム最多の8得点(川本治も同数)を決め、永井は最終戦のアシストで8とし、単独でアシスト王も獲得した。奥寺の成長は目覚ましく、日本代表の欧州遠征でブンデスリーガ、1FCケルンの名将、ヘネス・バイスバイラーの目に留まり、日本人初のプロプレーヤーへの道が開かれる(文中敬称略)。

[匿名さん]

#6572020/09/24 00:01
昨日も今日も明日も、弛まぬ爆サイパトロール。

[匿名さん]

#6582020/09/27 01:13
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□■奥寺、岡田、宮内…アジア王者になった古河電工【連載◎J前夜を歩く第9回】■□

2020-03-26
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第9回は苦難を乗り越え、アジアを制した古河電工について綴る。

文◎国吉好弘 写真◎BBM



■86年当時のアジアクラブ選手権

 2017年の浦和レッズに続き、2018年は鹿島アントラーズがAFCチャンピオンズリーグ(ACL)を制し、アジアのクラブチャンピオンに輝いた。これまで19の国内タイトルを獲得してきた鹿島にとっても初の国際的な公式大会での優勝だった。

 当然、日本でも大きく報道され、サッカーファンならずとも日本のチームの活躍を喜んだことだろう。しかし、今から34年前に初めて日本のチームがアジアチャンピオンとなったとき、その快挙が広く知れわたることはなく、現在でも話題にのぼることは少ないと感じる。

 1986年12月、サウジアラビアのリヤドで行なわれたACLの前身である第6回アジア・クラブ選手権(Asia Club Championship)決勝大会において、1985年の日本リーグ(JSL)チャンピオン、古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)は3戦全勝して初優勝を飾ったのだった。

[匿名さん]

#6592020/09/27 01:13
この大会はアジア・サッカー連盟(AFC)主催で、アジアのクラブチャンピオンを決める大会として1967-68年に始まり、2度の中断をはさんで85-86年シーズンに再開されていた。まだ、その存在も、意義も各国に浸透しておらず、日本も第2回大会に東洋工業が参加して3位となったが、その後は日程の問題もあり出場を見合わせていた。

 この86年も6月に1次予選が始まったものの、2次予選は10月にアジア大会があったために12月に延期となり、マレーシアで2試合を行なって、古河はマカオのハップ・カーンを3-1、マレーシアのセランゴールを2-1で破った。すると、年明けの1月に行なわれる予定の決勝大会が急きょ、12月中に開催されるとの情報が入る。天皇杯と日程が重なるため辞退も検討されたが、日本協会との話し合いの末に天皇杯を棄権して参加するというドタバタだった。

 しかも、決勝大会は開催国サウジのアルヒラル、イラクのアルタラバ、中国の遼寧省と4チームによる総当たり戦で26日、28日、30日と、わずか5日間で全日程をこなす、今では考えられないハードスケジュールだった。

[匿名さん]

#6602020/09/27 01:14
■レフェリーの不公平に納得がいかない(清雲監督)

 この年の古河はリーグ戦中断までの6試合で1勝1分け4敗と不振。サウジとの気温差は20度以上もあるという厳しい条件の中での戦いだった。さらに初戦のアルヒラル戦をはじめ、レフェリーのジャッジはあからさまに相手寄りで、帰国した後、清雲栄純監督が「優勝したのはうれしいが、レフェリーの不公平さにはどうしても納得がいかない。うれしさも半減です」(サッカーマガジン87年1月号)とまで語ったほどひどかった。

 そんな戦いの中で古河は驚きの踏ん張りを見せた。大観衆に後押しされたアルヒラルがやや甘く見ていた感もあり、リベロの岡田武史、守備的MFの宮内聡を中心とした堅い守りで対抗。31分にCKから先制されるが、ここから違いを見せたのが9年間プレーしたドイツから復帰していた奥寺康彦だった。

 40分に右からのクロスが流れてきたところを蹴り込み同点に。後半に入って早々に昨季のJSL得点王の吉田弘が逆転ゴールを決めると、50分、57分と奥寺が連続ゴールで4-1と突き放した。アルヒラルもここから猛反撃に転じ、2点を失うが、4-3で逃げ切った。

 第2戦、第3戦もレフェリーの判定は露骨だったが、これにも耐えてアルタラバを2-0、遼寧省を1-0で下し、3戦3勝で文句なしの優勝を果たした。

 数々の苦難を乗り越えてアジアチャンピオンとなった古河。日本サッカーにとっても全アジアでの初タイトルであり、もっと称えられてよかった。歴史に埋もれさせてはいけない、快挙である。

[匿名さん]

#6612020/09/30 01:13
□■ジェフユナイテッド市原・千葉と古河電工■□

☆★ジェフユナイテッド(JEF UNITED)市原・千葉の“F”が古河電工の“F”ってご存じですか?じつは古河電工は日本のサッカーととても古くからお付き合いしてきた会社のひとつなのです。★☆


古河電工は、社会人のサッカーチームとしては草分け的存在でした。1950年代までは学生が勢力図の中心にいましたが、1960年に古河電工が実業団(企業)チームとして初優勝。1960〜1970年代には天皇杯を4度制覇し、1986年にはアジアクラブ選手権で日本のクラブチームとして初めての優勝を飾りました。

1993年にJリーグが発足する際、古河電工はJR東日本と共同で“ジェフユナイテッド市原”を創設。2005年にはホームタウンに千葉市が加わり、”ジェフユナイテッド市原・千葉”に改称しました。2005年〜06年にはヤマザキナビスコカップを2連覇しています。


■サッカー部の歴史 History

古河電工サッカー部の歴史を少しひもといてみたいと思います。

◇明治〜大正◇
当社は元々社員スポーツが盛んな会社でした。明治時代から日光では自然のリンクでレクリエーションとしてアイスホッケーに興じ、そのメンバーがシーズンオフにサッカーをするといった具合です。この活動が古河電工サッカー部の発祥といえます。

◇昭和◇
昭和の初期になると丸の内本社にサッカー部が創部され、日光と選手の貸し借りをしながら活動が活発化していきます。戦時中は活動を休止していましたが、終戦後すぐに活動を再開しました。これは敗戦と不景気で灰色の空気がただよう時代にあって、3代社長・西村啓造が社員を元気づけるための措置であったと伝わっています。

1949
実業団リーグに参戦。

1952
サッカー部を強化する目的での採用を開始。

[匿名さん]

#6622020/09/30 01:14
1955
4代社長に就任した小泉幸久はさらに実業団スポーツの強化を推進します。サッカーを含む4競技を"社技"に指定し、サッカー部については「強化5カ年計画」を策定して日本一をめざします。当時は学生と学生OBによる大学チーム全盛の時代であり、毎日練習できる学生に社会人はかなわないという時代でした。

1960
第40回天皇杯で初優勝を成し遂げます。この優勝は実業団としても初めての優勝であり、これ以降サッカー界の勢力図は大きく実業団にシフトしていきます。その後も単独チームとしての海外遠征、選手の海外留学制度など、世界で戦える道を開くための取り組みを次々と仕掛けていきます。

1986
さまざまな先駆的取り組みが1986年のアジアクラブ選手権で日本チームとして初優勝を成し遂げたことと無縁ではありません。
「サッカー選手としてはもちろん、一社会人としても立派であれ。」古河電工サッカー部は創部当初からこの精神が貫かれていました。この精神で鍛えられたサッカー部選手やOBたちが、「日本サッカーの将来」を築く人材となっていきました。

◇平成◇
プロ化の道を模索していたその中心に、実業団時代に企業の業績不振による休部の憂き目を見た古河電工サッカー部のOBたちがいました。彼らは企業スポーツの限界を感じていたと思います。賛否両論が渦巻く中で、競技レベルの向上や観客動員アップだけでなく、地域密着、総合スポーツクラブといった幅広く、長期的な視野に立った理念を掲げることで周囲の賛同を徐々に獲得していきます。

1993
苦難の過渡期を乗り越えて、1993年(平成5年)Jリーグが発足しました。
Jリーグの発足に伴い、古河電工サッカー部はその歴史を、その後間もなく誕生するプロチームに託します。

[匿名さん]

#6632020/09/30 01:15
■古河電工サッカー部史

電子ブックを見る。

・本編
・全試合データ

※古河電気工業株式会社 WEBサイトより閲覧可能


■Jリーグチームの発足とパートナー(スポンサー)活動 Activity

古河電工は平成元年にプロリーグ検討委員会を設置。翌年JR東日本と提携してJリーグへの参加の準備を進めます。こうして“ジェフユナイテッド”が生まれたのです。

サッカーのクラブチームはリーグを戦うだけでなく、次世代選手の育成、地域社会の活性化などの使命も担う存在です。当社グループは、「次世代育成」「スポーツ・文化振興」「自然環境・地域社会との共生」の三つを軸とした社会貢献基本方針にもとづき、今後もサッカースポーツの振興を通じて、地域に根差した社会貢献活動を継続してまいります。


■社会貢献基本方針

・次世代育成

・スポーツ文化復興

・自然環境地域社会との共生



※古河電気工業株式会社 WEBサイトより

[匿名さん]

#6642020/09/30 01:16
>> 続く…

[匿名さん]

#6652020/10/12 22:47
継続中

[匿名さん]

#6662020/11/01 00:11
中澤 佑二(1978年2月25日 - )は、埼玉県吉川市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。元日本代表。血液型AB型。


■愛称
ボンバーヘッド、ボンバー、ユウジ
■カタカナ
ナカザワ ユウジ
■ラテン文字
NAKAZAWA Yuji

■基本情報
◇国籍
日本
◇生年月日
1978年2月25日(42歳)
◇出身地
埼玉県吉川市
◇身長
187cm
◇体重
78kg

■選手情報
◇ポジション
DF
◇利き足
右足
◇クラブ

クラブ
出場
(得点)
1996-1997
アメリカFC
1999-2001
V川崎/東京V1969
83
(5)
2002-2018
横浜F・マリノス
510
(31)

■代表歴
2000
 日本 U-23
1999-2010
日本
110
(17)

恵まれた体格と勝負強さを持ち味とし、日本代表でも長年中心選手として活躍しており、出場数は歴代4位の110試合を記録している。また、2010 FIFAワールドカップの開幕前までキャプテンを務めていた(開幕時より長谷部誠に変更)。Jリーグでは、2012年9月29日の大宮戦から、フィールドプレーヤーとしてはトップの199試合に連続出場。さらに2013年7月6日の大分戦から2018年8月15日の名古屋戦まで178試合連続フル出場という記録を持つ。

[匿名さん]

#6672020/11/01 00:12
■来歴

◇プロ入り前
サッカーを始めたのは小学校6年生とプロ選手の中では遅めだった。埼玉県立三郷工業技術高等学校はサッカーの名門校ではなかったために、卒業後Jリーグに売り込む価値を上げるべくブラジルへサッカー留学を計画する。ブラジルのサッカークラブ・アメリカFCに加入し、次第に練習試合などにも起用されるようになった。チームメイトにはジウベルト・シウバなどがいた。一年後にビザ更新の為日本に帰国したところクラブから必要書類が届かずブラジルでのプレーを断念した。

Jリーグの各クラブへ売り込みをかけたがどのクラブからも誘いは来ず、母校のサッカー部で在校生に混じって練習を続ける。1998年にヴェルディ川崎のユースチームとの練習試合で得点を挙げる活躍を見せ、これをきっかけに練習生契約での加入が決まる。練習生契約では給料は支払われず、必要費用をクラブに支払って練習に参加する。認められればプロと一緒に練習が出来るが、クラブからは交通費など金銭補助は一切無く自腹での練習参加の身となり、地元の埼玉県吉川市からヴェルディの練習場がある東京都稲城市まで(交通費は往復で約1800円)片道2時間かけて練習に参加していた。この時の待遇と経験は本人にとっても屈辱だったようで、プロの練習を横目に単調な反復の基礎体力練習に明け暮れ、練習に付き合ってくれたトレーナーと共に嘆息していた。


◇東京ヴェルディ

1999年からプロ契約がきまった。同年のシーズンでレギュラーポジションを獲得し、Jリーグ新人王に輝き、シドニー五輪をめざすトルシエ率いるU-23サッカー日本代表に招集され本大会にも出場した。

[匿名さん]

#6682020/11/01 00:14
◇横浜F・マリノス

2002年に横浜F・マリノスに移籍し、チーム初の2連覇(2003年、2004年)と3ステージ連続優勝(2003年1st、2ndステージ完全制覇、2004年1stステージ)。2004年度にはJリーグMVPを受賞した。2006年のオールスターゲームでは、当時の日本代表GK川口能活から直接フリーキックを決め、DFとして初めてMVPを受賞した。本人のインタビューによれば、直接フリーキックでのゴールは初めてとのこと。2013年から3年連続リーグ戦全試合出場、2015年10月ヴィッセル神戸戦にてJ1通算500試合出場を達成した。

2017年5月27日、J1リーグ第13節の清水エスパルス戦に出場し、J1通算550試合出場の記録を達成した。6月25日、第16節のヴィッセル神戸戦ではフィールドプレーヤーでは阿部勇樹に並ぶ139試合連続フル出場を果たした。続く、17節の大宮アルディージャでもフル出場をして、フィールドプレーヤーとして歴代1位となる140試合連続フル出場を果たした。

以前から「40歳になったら現役を退く」ことを度々表明していたが、2017年12月11日、チームとの契約更改終了後に、その方針通り翌2018年限りで引退する意向を改めて明らかにした。

2018年8月19日、第23節の鹿島アントラーズ戦で6年ぶりのベンチ外となり、フィールドプレイヤーでは最多となる2013年7月6日の大分トリニータ戦から続く連続フル出場記録を178試合でストップした。ベンチ外の理由は、アンジェ・ポステコグルー監督が中澤の疲労を考慮したため。その後、試合に出場する事は無かったが、12月1日に行われた最終節のセレッソ大阪戦に約3ヶ月半ぶりに途中から試合に出場し、この試合キャプテンだった扇原貴宏からキャプテンマークを受け取りピッチに立った。

[匿名さん]

#6692020/11/01 00:14
2019年1月8日、引退を発表。横浜FMからは、契約延長のオファーを受けていたが、左膝の怪我の影響もありメディアで度々公言していた通り40歳での引退となった。

2019年10月24日に開催されたJリーグ理事会において同年開催のJリーグアウォーズでJリーグ功労選手賞の授与が決定した。


■日本代表

1999年9月8日に行なわれたイランとの親善試合でフル代表デビューを果たし、翌2000年に行なわれたAFCアジアカップ2000予選のシンガポール戦で代表初得点を含む2得点。その後はシドニーオリンピックではレギュラーとして活躍し、AFCアジアカップ2000でも3試合に出場して優勝に貢献するが、2001年に入ってからスランプに陥り、代表でも同ポジションの松田直樹の控えに甘んじる事が増え、2002 FIFAワールドカップ本大会のメンバー発表前最後の試合であるアウェイのノルウェー戦にはフル出場(同年唯一のAキャップ)するが0-3で敗れ、秋田豊の選出もあってメンバー入りは叶わなかった。

その後しばらくの間招集されることはなかったが、2003年に横浜を年間優勝に導く活躍から代表へと復帰を果たす。復帰してからしばらくは控えであったものの、ジーコ監督が本格的に3バックを導入した頃からレギュラーとして出場することが増え、AFCアジアカップ2004ではグループステージのタイ戦で決勝点を含む2得点、バーレーンとの準決勝では敗戦の危機を救う同点ゴールを決めるなど、玉田圭司と並んでチームトップタイの3得点を記録する活躍で優勝の原動力となった。その後もレギュラーとして出場を続け、2006 FIFAワールドカップ本大会ではグループステージ全3試合にフル出場したが、ノックアウトステージ進出はならなかった。

[匿名さん]

#6702020/11/01 00:15
ワールドカップ終了後に日本代表から引退することを発表し、2006年内は代表戦に出場しなかったものの、2007年2月千葉県内で行われる日本代表候補合宿のオシムジャパン体制でメンバーに初選出され、代表復帰を果たした。その後は不動のレギュラーとして君臨し、2010 FIFAワールドカップでは田中マルクス闘莉王とともにセンターバックのコンビを組んでグループステージ3試合とノックアウトステージ1試合に先発出場し、日本代表の2大会ぶりとなる16強入りに貢献。大会終了後に公表されたFIFAの技術研究グループが作成した報告書では、空中戦の強さと視野の広さがあると評されている。彩の国功労賞を受賞。

日本代表では守備だけでなくセットプレーにおける得点源としても活躍し、通算得点数17は日本代表におけるDF登録の選手では史上最多記録である。

110試合で警告5回、退場0回とカードを提示されることは非常に少なかった。


■プレースタイル・評価

身長187cmの恵まれた体格、相手選手との体のぶつけあいにも負けない強さ、ヘディングでのボールの取り合いの上手さを備えるディフェンダー。

デンマークで発行されているワールドカップ専門雑誌『VM2010』において、1対1での守備力の高さや得点力を理由に、田中マルクス闘莉王と共に脅威的存在であると報道されている。

AFCアジアカップ2004では、主要な守備スタッツ7部門中5部門で日本代表1位を記録(サッカー解析システム「opta(オプタ)」より)。同大会MVPには選ばれなかったが、メディアなどからは中澤をMVPに推す声もあった。

2020年4月、イギリスメディアの選ぶ21世紀の日本代表ベスト11に選ばれた。

[匿名さん]


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