宮崎日大から将来の4番候補として、1980年にドラフト2位で広島に入団。途中、ダイエーにトレードされるなどしたが、内野、外野でプレーした。当たればとてつもなく打球が飛んでいくパワーヒッター。2軍では打点王、本塁打王までとったが安定感に欠き、1軍出場はわずかに36試合。それでもプロ初本塁打は、近鉄の左腕エース、阿波野秀幸から放っている。ほとんど2軍暮らしだったが、その真面目な性格と野球への取り組みの姿勢を当時2軍監督だった故・三村敏之氏に買われ、兼任コーチも含めると、1991年から2軍で3年間、コーチをした。
その後ユニホームを脱ぐと、広島市内で焼肉店を18年間経営した。このときの牛肉の仕入れ先の関係で、宮崎日大とのつながりが復活するのだが、野球への情熱を捨て切れずに2005年からは「プロ養成野球専門学院」の校長に就任した。だが、あっという間に資金がショートして破綻。焼肉店も潰れるなど、榊原監督も多額の借金を背負い、今度はサラリーマンに転身。グリストラップと言われる下水の油分除去処理器を扱う会社で、まさに泥にまみれながら慣れない4年間の営業生活を過ごした。
2013年に学生の指導者資格回復の制度が緩和されると、その第1回の講習を受けて指導者資格を回復した。縁があって、前述した宮崎日大の関係者から監督就任を打診されると、「ありがたいことに、また野球に情熱を注ぐことができる機会をいただいた」と、喜んで受諾。同大学の事務員となって、昨年8月1日から監督就任することになった。