>>582
越後長岡藩の慶応改革をした。
古めかしい封建社会の秩序を撤廃して人心の入れ替えを行った当時としては画期的。継之助が描いた改革構想は、他力に頼らず自力で生きていく独立国家のようなもの。これを実現するために、藩の組織の改革や、慢性化していた賄賂・賭博・遊郭を禁止または廃止。武士による不当な取り立てや株の特権・河税なども解消したため、農民は救われました。
藩の財政を立て直し、藩士の知行の平均化を行う。これは石高ごとに細かく分類されていますが、基本的には100石より少なければ増やし、100石より多ければ減らすといった内容です。この立て直しにより家老首座連綿の稲垣平助家は2,000石から500石となったため、継之助はとても恨まれたそうです。これは門閥を弱体化させるための策でもあり、相対的に藩主の威厳や指導力が大きくなりました。
最新の武器を買い集めた。
戊辰戦争勃発の背景から、継之助は兵制改革として軍備にも力を注ぎました。従来の刀や槍といった武器を一掃して西洋銃剣へと変更し、横浜の貿易商からは、ミニエー銃や手動機関銃であるガトリング砲も購入しています。この近代武装化には藩士から反発が起こりましたが、継之助はなんとか説得に成功しました。その他にもフランス式兵制を推進して兵学所を造るなどしたため、長岡藩は雄藩にも一目置かれる存在になった。以上