88
2024/06/08 02:40
爆サイ.com 甲信越版

🍶 上越市雑談





NO.10295033

戸隠神社お参り!
上越人なら何回かは行ったことあるよね! 奥社はかなり歩くよね~ながの. 
報告閲覧数940レス数88
合計:

#392024/03/02 16:37
ライジングザローニンはみんなそうなるかもな。

[トリビュート]

#402024/03/02 23:08
自分がどうこうよりも、言われる筋合いねーって案件増えたとかそうかね?

[匿名さん]

#412024/03/02 23:10
神様おるわけないやんけ🤓

[匿名さん]

#422024/03/02 23:23
総務省消防庁
スポンサー

www.fdma.go.jp

詳細

[芝海老の背]

#432024/03/06 17:35
この戸隠神社は松本ではございません!

[匿名さん]

#442024/03/06 17:51
ランニングついでに行ってそのまま奥社から戸隠山登山したけど蟻の戸渡りで死ぬ思いをした。

[匿名さん]

#452024/03/07 17:38
伊勢(いせ)は、越後国の戦国大名・上杉謙信と深い仲にあったとされる女性。謙信の事績を伝える軍記物『松隣夜話』にその名が見られる。伊勢御前とも書かれる[1]。

伝承

ウィキソースに松隣夜話の原文があります。
『松隣夜話』によれば、上野国「鴻の平」の武士・千葉采女佐[注釈 1]の娘で「無双の女房」だったという。天正3年(1575年)頃、謙信は敵方の武士の娘である伊勢を召し出し[注釈 2]、春には平井城の庭園で共に遊覧するなど懇ろな関係にあった。しかし謙信と伊勢の関係を快く思わなかった柿崎景家が直江山城守と宇佐美駿河守[注釈 3]に働きかけたため、謙信は伊勢との交流を断つことになった。落胆した伊勢は翌年正月、青龍寺という寺で出家してしまった。さらに翌年春、伊勢は世話人の老尼に連れられて平井城を訪れたが、謙信とのことが思い出されて泣き腫らすばかりで、帰るころになって「諸共に 見しを名残の 春ぞとは 今日白川の 花の下かげ」という和歌をしたためた[注釈 4]。その後も伊勢は懊悩し続け、同年9月に19歳で死去したという[2][6]。

『松隣夜話』や『野史』は、天正5年(1577年)に柿崎景家が謙信に無断で織田信長に通交したために討たれたとしているが、実は景家が謙信と伊勢との離別を謀ったことに対する報復だったのだと記している[注釈 5][8][9]。景家討伐の後、かねてより謙信の体調の衰えを危惧していた甘粕景持は「敵方の娘であっても、恩愛や夫婦の契りはそのような事に左右されない」と主張し、直江・宇佐美ら他の重臣たちと謀って、伊勢を呼び戻して還俗させ、その伯父にあたる山口但馬の養女として謙信に輿入れさせようとした。そこで山口但馬は伊勢が籠居する青龍寺を尋ねたが、伊勢の世話人だった老尼より既に伊勢が病死していることを聞かされ、泣く泣く法要を執り行って越後へ戻った。その後謙信の家臣たちは青龍寺や伊勢の実家に弔いの品々を贈ったという[10]。

[匿名さん]

#462024/03/07 17:39
宗教・文化的側面

上杉謙信所用の甲冑と伝わる「色々威腹巻」(上杉神社蔵、重要文化財)。室町時代の作。兜の前立は飯綱明神。
謙信は武神毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を使った。また、三宝荒神を前立に使った変わり兜を所有していたとされる[37]。

青年期までは曹洞宗の古刹である林泉寺で師の天室光育から禅を学び、上洛時には臨済宗大徳寺の徹岫宗九のもとに参禅し「宗心」という法名を受けた。晩年には真言宗に傾倒し、高野山金剛峯寺法印で無量光院住職であった清胤から伝法灌頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けている。

戦略家・戦術家としてだけではなく、和歌に通じ達筆でもあり、近衛稙家から和歌の奥義を伝授されるなど、公家との交流も深い文化人でもあった。特に『源氏物語』を始めとする恋愛物を好んで読んでおり、上洛した際に開催した歌会でも見事な雅歌(恋歌)を読み、参加者全員を驚かせたと言う。琵琶を奏でる趣味もあった。

七尾城の戦いのとき、謙信は有名な『十三夜』の詩(七言絶句の漢詩)を作ったという。この詩は頼山陽の『日本外史』に載せられて広く知られることになったが、『常山紀談』や『武辺噺聞書』ではこれと少し違っているため、頼山陽が添削したものとみられている。[信頼性要検証]また、十三夜は七尾落城の二日前であり謙信が本丸に登っていないことや、和歌によく通じた謙信も漢詩はこの他に一度も作っていないことなどから、これを不自然とし、この詩自体が後世の仮託とみなす説もある[注釈 11]。

[匿名さん]

#472024/03/07 17:39
三宝荒神(さんぼうこうじん、さんぽうこうじん)は、日本特有の仏教における信仰対象の1つ。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神である。

概要
荒神は、仏法ならびに伽藍の守護神のことである。

像容としての荒神は、インド由来の仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像であり、三宝荒神はその代表的な物である。日本古来の荒魂(あらみたま)に、古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられ、神道、密教、山岳信仰などのさまざまな要素が混交して成立した。日本全国に荒神を祀る寺院や神社は約300社、三宝荒神を祀る社は10社程ある。

三宝荒神の像容は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上に5つの小面を持つ)である。頭髪を逆立てて眼を吊り上げた、暴悪を治罰せんとする慈悲が極まった憤怒の表情を示し、密教の明王像に共通するものがある。

不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、かまど神として祭られることが多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものである。仏像としての作例は近世以降のものが多い。

古代より出雲や大和のクニオミ系支族などが信仰した三輪山に祀られる神。

[匿名さん]

#482024/03/07 17:39
神格化された聖徳太子であり、十七条憲法の「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧これなり」に基づいたもの。仏法僧の三宝を守護されている神とある。

『大荒神経』では、姿は天女と記されており、また文殊菩薩、不動明王、ビナーヤキャ(歓喜天)と同体とされ、さまざまな変化神が江戸時代以降、日本各地に祭祀されているという説もある。

日蓮宗や法華宗では『御義口伝』の「三宝荒神は十羅刹女なり」の一文に基づき、三宝荒神を十羅刹女と同体とすることがある[1][2]。また普賢菩薩と習合し「普賢三宝荒神」と呼ばれる場合もある[3]。

史跡
役小角が金剛山で祈祷していると、艮(北東)の方角に赤雲がなびき、荒神が現れ、その地に祠をつくって祀ったという伝説がある。また、荒魂を祀って荒神としたという説もある。後者は、ヒンドゥー教での悪神が仏教に帰依した後に守護神・護法善神とされた風習が、日本の風土でも同じくされたと解釈される。

征夷大将軍の任務を果たした源頼義は鎌倉と武蔵大宮の地に八幡堂を建立。この際に三宝荒神を祀った。

上杉謙信は三宝荒神を前立に使った変わり兜を所有していたとされる[4]。

真言
オン ケンバヤ ケンバヤ ソワカ[5]

三宝荒神は、神仏習合を背景としながら、密教経典の『大日経』の注釈書にあたる『大日経疏』巻五に説かれている、日天の眷属である地震を司る神である「剣婆」(けんばや)と同一視された。[要出典]「剣婆」はサンスクリット語のKampa(地震波)を語源に持つ。[要出典]この真言は『大荒神経』に出てくる荒神の真言であり、 荒神の真言はさまざまな真言が『大荒神経』に記されている。

祭祀
火と竈の神であり、神棚は家の中で最も清浄な場所である台所に祀る。礼拝の作法については諸説あるが、清荒神清澄寺では、一礼、三拍手、一礼で礼拝し般若心経と荒神御真言を七反唱える作法が紹介されている[6]。家庭でお札を祀る際には仏壇ではなく、一社宮の神棚で祀る[6]。

[匿名さん]

#492024/03/07 17:45
3月15日 最強開運日 【一粒万倍日】

[匿名さん]

#502024/04/12 14:34
たまこんにからしじゃなくてかんずりつけるの?

[匿名さん]

#512024/04/25 00:31
『昆虫物語 みつばちハッチ〜勇気のメロディ〜』(こんちゅうものがたり みつばちハッチ ゆうきのメロディ、英題:Hutch,the Honeybee)は、2010年公開の日本のアニメ映画。

概要
タツノコプロ作品『昆虫物語 みなしごハッチ』のリメイク版にあたるシリーズ初の劇場作品。総合プロデュースは『おくりびと』の小山薫堂。2010年7月にはイタリア映画祭『第40回ジッフォーニ映画祭』で招待上映もされている。前売り券としてゆけゆけ!ハッチストラップ。入場者プレゼントとしてコスモスの種が入ったフラワーカードがプレゼント。キャッチコピーは『「ママ、今助けに行くよ」ひとりぼっちのみつばちと、虫と話せる少女の冒険の旅が始まる──。』。

全国223スクリーンで公開され、2010年7月31日,8月1日初日2日間で、動員4万6,687人、興収は4,800万2,000円になり映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)で初登場第8位となった[2]。

公開直後の9月1日、本作品でメインにアニメ制作を行っていたグループ・タックが倒産している。

また、本作でポンチョのママ、ブランカのママ、スズメバチの女王役を演じた榊原良子はリメイク版みなしごハッチでハッチのママ役を演じている。

タイトルについて
タイトル名がオリジナルの『みなしごハッチ』から『みつばちハッチ』に変更されていることについては、現在の視点で「みなしご」という表現が差別的表現として抵触すると危惧されたか、死語と見なされたかは不明であるが、40年ぶりにハッチの映画を作るにあたり「みなしご」を使うことはそぐわないという判断がされたのではないかと読売テレビのアナウンサーである道浦俊彦が自身のブログで指摘している[3]。だが、その後タツノコプロが公式Twitterで、現代で「みなしご」という言葉は伝わりにくく、「みつばち」という響きがかわいらしいことが理由とされており、差別用語とは全く無関係であることをコメントした[4]。

テレビ放送
2014年7月20日(日曜)に、本作の製作の一部を担当したTBSによって、15:00 - 17:00(JST)枠で地上波初放送となった(文字多重放送)。

[匿名さん]

#522024/06/01 02:42
三十三間堂

2022年の三十三間堂
地図Wikimedia | © OpenStreetMap
所在地 京都府京都市東山区三十三間堂廻町657
位置 北緯34度59分16.31秒 東経135度46分18.23秒座標: 北緯34度59分16.31秒 東経135度46分18.23秒
山号 妙法院に所属する仏堂につき山号はなし
院号 蓮華王院
宗派 天台宗
寺格 妙法院飛地境内
本尊 千手観音(国宝)
創建年 長寛2年(1165年)
開基 後白河天皇
正式名 蓮華王院 本堂
(妙法院の一部)
別称 三十三間堂
札所等 洛陽三十三所観音霊場第17番
文化財 本堂、木造千手観音立像(1,001躯)、木造二十八部衆立像ほか(国宝)
築地塀(太閤塀)、南大門(重要文化財)
公式サイト 蓮華王院 三十三間堂
三十三間堂の位置(京都府内)三十三間堂
テンプレートを表示

江戸時代の三十三間堂(18世紀後半、歌川豊春画)。

江戸時代作の絵図に描かれた三十三間堂 左隣に見えるのが方広寺大仏殿 (京の大仏)(「花洛一覧図」京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ 一部改変)

通し矢に因んで始められた「大的大会」。成人を迎える射手が弓を引く

本堂(南面)

本堂(北面)
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は、京都市東山区三十三間堂廻町にある天台宗の寺院。本尊は千手観音。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある妙法院の飛地境内であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、蓮華王院の名称は千手観音の別称「蓮華王」に由来する。洛陽三十三所観音霊場第17番札所。

[匿名さん]

#532024/06/01 02:43
歴史
この地には元々後白河上皇(1127年 - 1192年)が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂としての三十三間堂である。上皇が眠る「法住寺陵」は三十三間堂の東隣にある[1]。

上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて長寛2年12月17日(1165年1月30日)に完成したという[要出典]。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の建長の大火で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称されている堂であり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。

三十三間堂について次のような伝承がある。後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された。

[頭痛が痛い?]

#542024/06/01 02:43
なお、これより前、後白河上皇の父・鳥羽上皇は平清盛の父の平忠盛の寄進により、鴨東白河に聖観音を祀る得長寿院千体堂(三十三間堂、文治地震で倒壊したとされる)を営んでいる。2人の上皇がいずれも平氏の棟梁の寄進により寺院を造営していることは、平氏隆盛の一因として留意する必要がある。

室町時代、室町幕府の将軍足利義教の命により、永享5年(1433年)から5年をかけて、本堂や仏像の本格的な修復が行われている。

桃山時代には、豊臣秀吉による方広寺(京の大仏)造営により、三十三間堂や後白河天皇法住寺陵もその境内に含まれ、周囲の築地塀(現・太閤塀)などが整備された。慶長5年(1600年)には豊臣秀頼によって南大門が、翌慶長6年(1601年)には西大門(現・東寺南大門)が建立されている。また、その間に本堂や仏像の修復が行われている。

豊臣家の滅亡後、江戸時代の初期には方広寺ともども三十三間堂は妙法院の管理下に置かれるようになった。現在も三十三間堂は妙法院の飛び地(境外仏堂)となっている。

江戸時代中期に発生した京都史上最悪の大火とされる、天明8年(1788年)の天明の大火では、三十三間堂の立地する洛東地域は、焼亡を免れた。

[匿名さん]

#552024/06/01 02:43
寛政10年(1798年)の7月1日(旧暦)に隣接する方広寺大仏殿に落雷があり、それにより火災が発生し、翌2日まで燃え続け、方広寺の伽藍である大仏殿・大仏(京の大仏)・仁王門・回廊がほぼ全て焼失した。方広寺大仏殿は(東大寺大仏殿の規模を上回り)当時国内最大の木造建築物であり、火災の際の熱や火の粉で三十三間堂も類焼してもおかしくない状況であったが、奇跡的に類焼を免れた。横山華山作の花洛一覧図(木版摺)は、大仏焼失後の文化5年(1808年)に出版された京都の鳥瞰図であるが、巨大な方広寺大仏殿があえて描かれ(理由は諸説あり 大仏を懐かしむ人々の期待に応えたものか)、江戸時代における三十三間堂と方広寺の位置関係が把握しやすい[2]。京都に伝わる「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン」というわらべ歌はこの時の火災のことを歌っている[3][注釈 1]。

2017年(平成29年)には、45年にわたった千手観音立像全1,001体の修復が完了した。

所在地と敷地の建物配置

東大門と池泉(本堂の東側にある庭園)
三十三間堂の京都府京都市東山区三十三間堂廻り町657。この敷地は、北は七条通(その北は京都国立博物館)、南は塩小路通、西は大和大路通、東は赤十字血液センター(その東は東大路通)に囲まれた南北に長い長方形である。園内は北に駐車場、南には太閤塀がある。駐車場のすぐ南の西の入口から入り、さらに入場料を払って内苑に入れる。本堂は内苑の中央に南北に長い建物で、建物内に諸仏が置かれていて、参拝者は本堂内の西の廊下を北から南へ歩く。本堂の東の庭は「通し矢」が行われる所で、本堂の東側は美しい庭園になっていて、手水舎・東大門(閉鎖)の北と南にそれぞれ池泉がある。[4]

[匿名さん]

#562024/06/01 02:44
本堂
国宝。三十三間堂と呼ばれる。現在の堂は文永3年(1266年)に再建されたもの。当初の建物は平清盛が後白河上皇のために長寛2年(1165年)に建立したものだったが、建長元年(1249年)の建長の大火で焼失した。洛中にある建物の中では大報恩寺本堂に次いで古く、洛中で鎌倉時代にまで遡る建物はこの2棟のみである。入母屋造、本瓦葺き、桁行35間、梁間5間とする。実長は桁行が118.2メートル、梁間が16.4メートルである。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)、組物は出組(肘木を壁面から一手持ち出す)を用いる。柱間装置は正面はすべて板扉、側面は最前方の一間のみ板扉で他は連子窓、背面は5か所に板扉を設け、他を連子窓とする。正面中央に7間の向拝を設ける。現状の向拝は江戸時代初期、慶安3年(1650年)のものであるが、後白河上皇による創建当初から現状のような形式の向拝が取り付いていたとみられる。

内部は板敷で、桁行33間、梁間3間の身舎(もや)の四方に1間幅の庇を設けた形になる。身舎が内陣すなわち仏像を安置する空間にあたる。内陣は中央の桁行3間分を内々陣とし、本尊千手観音坐像を安置する。その左右、各桁行15間分は10段の階段状の長大な仏壇とし、千手観音立像1,000躯を安置する(千手観音立像は他に本尊の背後にもう1躯ある)。天井は内々陣部分が折上げ組入天井、左右の部分は二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょう かえるまた)に化粧屋根裏(天井板を張らず、垂木を見せる)とする。庇部分(背面を除く)は各側柱(建物外周に立つ柱)から身舎柱へ繋梁を上下二重に渡す。各身舎柱間を飛貫(ひぬき、頭貫の一段下に位置する水平貫通材)で繋ぐこと、繋梁のうち下段のものが身舎柱を貫いて突出し、その部分に大仏様(よう)の木鼻(装飾的な彫り)を設けることなどが特色である。これらの特色は鎌倉時代の新たな工法を示すものである。

現状では堂の内外に彩色はみられないが、1930年(昭和5年)の修理時に、虹梁下面に貼付された装飾鏡の座を外した下から極彩色の文様が現れ、建立当初の堂は彩色で覆われていたことが判明した[5]。

[匿名さん]

#572024/06/01 02:44
「三十三間」の由来と構造
三十三間堂の名称は、本堂が間面記法で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間[注釈 2]の周囲四面に一間の庇(廂)を巡らせたという意味である。つまり柱間が33あるのは本堂の内陣(母屋・身舎)であり、建物外部から見える柱間は35ある。正面に7間の向拝があるが、この区域は慶安2年(1649年)から慶安4年(1651年)頃の増築である。

ここでいう「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。三十三間堂の柱間寸法は一定ではなく[注釈 3]その柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない[6]。しばしば「三十三間堂の1間(柱間)は今日の2間(12尺)に相当するから、堂の全長は33×2×1.818で約120mとなる」、と説明されることがあるが、これは柱間の数についても、柱間の長さについても誤りである(ただし実際の外縁小口間の長さ約121mとほとんど一致する)。

そもそも「33」は観音菩薩に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。

また、2016年(平成28年)に京都市埋蔵文化財研究所の調査により、地盤は砂と粘土を層状に積んで構成されていることが明らかになった。これは積層ゴムが建物の揺れを吸収する「免震」のメカニズムと共通している。

[匿名さん]

#582024/06/01 02:45
いってみた人教えてね?!

後白河天皇

『天子摂関御影』より「後白河院」
藤原為信 画
第77代天皇
在位期間
1155年8月23日 - 1158年9月5日
久寿2年7月24日 - 保元3年8月11日
即位礼 1155年11月22日(久寿2年10月26日)
大嘗祭 1155年12月19日(久寿2年11月23日)
元号 久寿
保元
時代 平安時代
先代 近衛天皇
次代 二条天皇
誕生 1127年10月18日(大治2年9月11日)
崩御 1192年4月26日(建久3年3月13日)
六条殿
大喪儀 1192年5月2日(建久3年3月19日)
陵所 法住寺陵
追号 後白河院
(後白河天皇)
諱 雅仁
別称 行真法皇
元服 1140年1月18日(保延5年12月27日)
父親 鳥羽天皇
母親 藤原璋子
中宮 藤原忻子
女御 藤原琮子
平滋子
子女 二条天皇
亮子内親王
好子内親王
式子内親王
守覚法親王
以仁王
円恵法親王
定恵法親王
休子内親王
惇子内親王
恒恵
高倉天皇
静恵法親王
道法法親王
承仁法親王
真禎
覲子内親王
皇居 平安宮
テンプレートを表示
後白河天皇(ごしらかわてんのう、1127年10月18日〈大治2年9月11日〉[1] - 1192年4月26日〈建久3年3月13日〉[2])は、日本の第77代天皇(在位: 1155年8月23日〈久寿2年7月24日〉- 1158年9月5日〈保元3年8月11日〉)。諱は雅仁(まさひと)。

鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟の近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年にわたり院政を行った。その治世は保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築した。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが、今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化面にも大きな足跡を残した。

[匿名さん]

#592024/06/01 02:46
今様(いまよう)は、日本の歌曲の一形式。今様とは「現代風、現代的」という意味であり、当時の「現代流行歌」という意味の名前であった。

概要
平安時代中期に発生、鎌倉時代に流行した。平安時代末期には後白河法皇が愛好し、熱中し過ぎて喉を痛めたことが史書の記録に残されている。また、法皇が編纂した『梁塵秘抄』の一部が現代に伝わっている。

後白河上皇自ら民間の流行歌謡である今様を学んで『梁塵秘抄』を編んだことは、この時代の貴族と庶民の文化との深い関わりをよく示している。今様は当時流行した歌謡であり、この他に古代の歌謡から発達した催馬楽(さいばら)や和漢の名句を吟じる朗詠も流行した。田楽や猿楽などの芸能も、庶民のみならず貴族の間にもおおいに流行し、祇園祭などの御霊絵や大寺院の法会などで演じられた。

江戸時代にも、本居宣長、熊沢蕃山、清水浜臣らの主に国学者による作品があり、その後も、黒川真頼、小杉榲邨らに作が見える。さらに明治時代初期の新体詩の詩人によって継承された。

歌詞が、7、5、7、5、7、5、7、5で1コーラスを構成するのが特徴で、様々な歌詞が生み出された[注釈 1]。

曲の方も、後述の越天楽今様(シラブル型)の他に各種作られ、長生殿のようなメリスマ型の曲や、山田耕筰が独奏チェロへ後期ロマン派風の短調のピアノ伴奏をつけた(中部日本放送(CBC)のクロージング(1964年 - 1993年)に使われた)暗い曲調のもの(原曲は箏曲、シラブル型)もあった。近代以降の歌曲にも、『一月一日』、『我は海の子』、『荒城の月』等この形式の曲が多い。『蛍の光』、『リパブリック讃歌』等、外国曲に今様形式の歌詞を当てはめたものもある。童謡・唱歌には3/4今様、歌謡曲には5/4今様の形式も多い。

[匿名さん]

#602024/06/01 02:46
『越天楽今様』
中でも有名なのは、『越天楽』のメロディーに歌詞を付けた『越天楽今様』である。雅楽の楽器を伴奏に使う場合のみ、雅楽の謡物に該当する(楽部のレパートリーには入らないが、民間の雅楽団体のレパートリーには入る場合が多い)。特に有名なのは「春のやよいの」で始まる慈鎮和尚の歌詞。この曲に舞を付けたものは「今様舞」と呼ばれ、白拍子装束で舞う。この他にも様々な歌詞が付けられた。これが九州に伝わったものが筑前今様となり、後に黒田節と呼ばれるようになった。近代に作られた神楽である豊栄の舞も、現代版「越天楽今様」・「今様舞」と言って良い。

脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ 今様を七五調四句で構成されたものとするのは落合直文が『新撰歌典』(博文館、1891年)などで主張し新体詩人らが採用した七五調形式を「今様形式」と見なすものである。高木市之助が「今様は七五調にあらず」(「國語と國文學」第九巻第十号、1932年9月)で主張したように古い資料には七五調定型のほかに不整形式も多い。
関連項目
国風歌舞
催馬楽
七五調
朗詠
梁塵秘抄
仏教讃歌
外部リンク

ウィキソースに今様の原文があります。
日本今様謌舞楽会
今様草加宿実行委員会
後白河院と今様(廣野はるか、東北大学文学部2009年度卒業論文)

[匿名さん]

#612024/06/01 02:48
「われは海の子」(われはうみのこ)は、文部省唱歌のひとつ。2007年(平成19年)に日本の歌百選に選出されている。

初出である1910年(明治43年)発行の文部省『尋常小学読本唱歌』におけるオリジナルの曲名は「われは海の子」(p.3:目次)、または「我は海の子」(p.64-67:本文 )となっている。作詞者・作曲者ともに不詳[1]。ただし宮原晃一郎(本名、宮原知久)(1882年 - 1945年)の娘と芳賀矢一(1867年 - 1927年)の義理の娘は、それぞれ自分の父あるいは義父が作詞者だと信ずると述べた。最近では宮原の原作を芳賀が改作したとする説が最も信頼されている[2]。

歌詞
漁村生まれの少年が、強靭な肉体と精神を誇る姿を表現した歌である[1]。『尋常小学読本唱歌』所収の歌詞は以下のとおり。

一、
我は海の子白浪の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ。
二、

生まれてしほに浴して
浪を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の気を
吸ひてわらべとなりにけり。
三、

高く鼻つくいその香に
不断の花のかをりあり。
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽と我は聞く。
四、

丈余のろかい操りて
行手定めぬ浪まくら
百尋千尋海の底
遊びなれたる庭広し。
五、

幾年こゝにきたへたる
鉄より堅きかひなあり。
吹く塩風に黒みたる
はだは赤銅さながらに。
六、

浪にたゞよふ氷山も
来らば来れ恐れんや。
海まき上ぐるたつまきも
起らば起れ驚かじ。
七、

いで大船を乗出して
我は拾はん海の富。
いで軍艦に乗組みて
我は護らん海の国。 

[匿名さん]

#622024/06/01 15:02
ククノチ(クグノチとも)は、日本神話に登場する木の神である。『古事記』では久久能智神、『日本書紀』では句句廼馳と表記する。

概要
神産みにおいて、イザナギ・イザナミの間に産まれた神である。『古事記』においてはその次に山の神大山津見神(オオヤマツミ)、野の神鹿屋野比売(カヤノヒメ)が産まれている。『日本書紀』の本文では山・川・海の次に「木の精ククノチ」として産まれており、その次に草の精・野の精の草野姫(カヤノヒメ)が産まれている。第六の一書では「木の神たちを句句廼馳という」と記述され、木の神々の総称となっている。

公智神社(兵庫県西宮市)の主祭神になっているほか、久久比神社(兵庫県豊岡市)には全国唯一のコウノトリ伝説もある。また、木魂神社という名のククノチ神を祭る神社も複数ある。樽前山神社(北海道苫小牧市)では原野の神・開拓の神として大山津見神・鹿屋野比売神とともに祀られている。志等美神社(三重県伊勢市)では林野の神であると同時に水の神とされる[1]。

『延喜式』「祝詞」には屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)の名が見え上棟式の祭神の一柱とされる他、ククノチと同神と見られる。

脚注
^ 伊勢文化舎(2008):53ページ
参考文献
『お伊勢さん125社めぐり』別冊『伊勢人』、伊勢文化舎、平成20年12月23日、151p. ISBN 978-4-900759-37-4
関連項目
日本の神の一覧
神産み
五十猛神
外部リンク
公智神社

[匿名さん]

#632024/06/01 15:02
樽前山神社

樽前山神社 大鳥居

地図Wikimedia | © OpenStreetMap
所在地 北海道苫小牧市字高丘6-49
位置 北緯42度39分39.19秒 東経141度36分14.79秒座標: 北緯42度39分39.19秒 東経141度36分14.79秒
主祭神 大山津見神
久久能智神
鹿屋野比売神
社格等 旧県社・別表神社
創建 不詳
本殿の様式 流造
例祭 7月15日
主な神事 山開祭・山納祭
地図
樽前山 神社の位置(北海道内)樽前山 神社樽前山
神社
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樽前山神社(たるまえざんじんじゃ)は、北海道苫小牧市にある神社である。旧社格は県社。

祭神
大山津見神(おおやまつみのかみ)
山を司る神。
久久能智神(くくのちのかみ)
木々を司る神。
鹿屋野比賣神(かやのひめのかみ)
原野を司る神。

[匿名さん]

#642024/06/01 15:03
歴史
『樽前山神社御由緒略記』によると、当社の前身となる神祠は江戸時代から樽前山山麓にて祀られており、手水鉢に残る「元治二年」(1865年)の年号をその証として挙げている[1]。しかし『苫小牧市史』では、1921年(大正10年)に起きた「鯉のぼり大火」によって証拠文書がすべて焼失しているため、件の手水鉢が樽前山山麓から移されたとする根拠がないと指摘されている[2]。

『苫小牧町史』には出典が不明ながらも、1874年(明治7年)7月12日に樽前山神社を苫細駅西側に建立する旨の願出があり、許可を得たとの記載がある[3]。

1875年(明治8年)5月、内務省通達により郷社として定められる[3]。『樽前山神社御由緒略記』ではこのとき、千歳・白老(しらおい)・勇払(ゆうふつ)三郡の総鎮守となったとしているが、『苫小牧市史』によると千歳郡と白老郡の郷社はそれぞれの稲荷神社であり、樽前山神社が「三郡総鎮守」というのは誤りとしている[4]。いずれにせよ、前述の大火で資料が失われているため、樽前山神社の由緒については不明点が多い[5]。

1921年(大正10年)の大火後、矢代町の社地に移転して、再造営を行う[6]。1923年(大正12年)11月、正遷宮式を挙行[6]。

1936年(昭和11年)、県社に昇格した[6]。

1975年(昭和50年)に鎮座100年を迎え、その記念事業として高丘への移転計画が立てられる[7]。

1986年(昭和61年)、神社本庁の別表神社に加列された。

1991年(平成3年)3月15日に高丘で地鎮祭が行われて本格的な工事が始まり、同年10月8日には本殿の上棟式が行われた[7]。そして1992年(平成4年)7月14日、樽前山神社遷座奉祝大祭が挙行され、矢代町の旧社殿から高丘の新社殿へと神体が移された[8]。

[匿名さん]

#652024/06/01 15:03
施設
天満宮
菅原道真を祀る境内社。
稲荷大明神
宇迦之御魂神を祀る境内社。
聖徳神社
聖徳太子を祀る境内社。
1927年(昭和2年)10月1日、幸町に建てられた太子堂を始まりとする[9]。
1996年(平成8年)9月、高丘の樽前山神社敷地内に移転した[10]。
奥宮
樽前山山頂にある。
天満宮
天満宮

稲荷大明神
稲荷大明神

聖徳神社
聖徳神社

奥宮
奥宮

[匿名さん]

#662024/06/01 15:04
脚注
[脚注の使い方]
^ 苫小牧市史 下 1976, pp. 819–820.
^ 苫小牧市史 下 1976, p. 820.
^ a b 苫小牧市史 下 1976, p. 819.
^ 苫小牧市史 下 1976, pp. 820, 822.
^ 苫小牧市史 下 1976, p. 822.
^ a b c 苫小牧市史 下 1976, p. 823.
^ a b 苫小牧市史 追補 2001, p. 1244.
^ 苫小牧市史 追補 2001, pp. 1244–1245.
^ 苫小牧市史 追補 2001, p. 1247.
^ 苫小牧市史 追補 2001, p. 1248.
参考文献
『苫小牧市史』 下巻、苫小牧市、1976年3月31日。
『苫小牧市史』 追補編、苫小牧市、2001年3月25日。
外部リンク
樽前山神社(北海道神社庁)
樽前山神社 公式サイト

[匿名さん]

#672024/06/01 15:05
神産み神話(イザナギ・イザナミが生んだ神々) SVGで表示(対応ブラウザのみ)
カヤノヒメは、日本神話に登場する草の神である。 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、『古事記』では別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。

神話での記述
神産みにおいて伊邪那岐命 (いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみ)の間に生まれた。 『古事記』においては、山の神である大山津見神との間に、4対8柱の神を生んだ。

神名
神名の「カヤ」は萱のことである。

萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。

別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である。

祀られる神社
樽前山神社(北海道苫小牧市)では山の神・大山祇神(おおややまつみ)、木の神・句句廼馳(くくのち)と共に祀られている。

萱津神社(愛知県あま市)では日本唯一の漬物の神として祀られている。

清野井庭神社(三重県伊勢市)では灌漑用水の神、別説では屋船の神の分霊であるという[1]。

脚注
^ 伊勢文化舎(2008):52 - 53ページ
参考文献
『お伊勢さん125社めぐり』別冊『伊勢人』、伊勢文化舎、平成20年12月23日、151p. ISBN 978-4-900759-37-4
関連項目
日本の神の一覧
神産み

[匿名さん]

#682024/06/01 15:06
志等美神社・大河内神社

所在地 三重県伊勢市辻久留一丁目13番
位置 北緯34度29分23.1秒 東経136度41分22.1秒座標: 北緯34度29分23.1秒 東経136度41分22.1秒
主祭神 志等美神社:久久能智神
大河内神社:大山祗神
社格等 式内社(小)
豊受大神宮摂社
創建 延暦23年(804年)以前
本殿の様式 神明造
例祭 神嘗祭(10月19日)
主な神事 祈年祭、月次祭ほか
地図
志等美神社・大河内神社の位置(三重県内)志等美神社・大河内神社志等美神社・大河内神社
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上社

所在地 三重県伊勢市辻久留一丁目13番
位置 北緯34度29分22.3秒 東経136度41分21.0秒
主祭神 久久能智神・大山祗神・埴安神・宇迦之御魂神ほか
社格等 旧村社
創建 戦国時代以降
例祭 7月15日
主な神事 御頭神事(1月15日)
地図
上社の位置(三重県内)上社上社
上社 (三重県)
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[匿名さん]

#692024/06/01 15:06
志等美神社(しとみじんじゃ)は、伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の摂社。本記事では志等美神社と同じ社地にある外宮摂社の大河内神社(おおこうちじんじゃ)、外宮末社の打懸神社(うちかけじんじゃ)、3社を境内に包摂する旧村社の上社(かみのやしろ)についても記述する。

伊勢神宮に属する125社のうちで神階を有するのは志等美・大河内・打懸の3社のみである[1]。

概要
三重県伊勢市辻久留一丁目13番に鎮座する。宮域自体は上社のものであり、志等美・大河内・打懸の3社は、上社境内入り口[注 1]の右手に鎮座している[3]。宮域面積は約700坪[4]、うち志等美・大河内・打懸の3社の面積は406m2[5]。志等美・大河内両社は同じ玉垣の中に鎮座し、南向きに建てられ、正殿は神明造の板葺である[5]。

志等美・大河内・打懸の3社には、賽銭箱が置かれていない。

志等美神社
外宮の摂社16社のうち第7位である[6]。「蔀野井庭神社」(しとみのいばじんじゃ)と記す文献[注 2]もあり、蔀野は鎮座地周辺の原野の名前である[8]。志賀剛は、志等美神社の「しとみ」とは動詞「しとむ」の連用形が名詞化したもので、「水に浸る」、「水に浸かって濡れる」意味であると解釈した[9]。

[匿名さん]

#702024/06/01 15:07
大河内神社
社殿は別であるが、志等美神社と同じ玉垣の中に鎮座している[10]。外宮の摂社16社のうち第8位である[6]。戦国時代に大河内神社が荒廃した後、上社の境内社であった山神社となった[11]。

現在の社名の読みは「おおこうち」であるが、古文書では「オホカハチ」、「オホガフチ」などのフリガナが付されている[12]。

打懸神社

打懸神社
外宮の末社8社のうち第4位である[13]。戦国時代に打懸神社が荒廃した後、上社の境内社であった並社(旧称:八王子社)となり、打懸神社の祭神がそのまま並社の祭神となった[14]。

上社
地域の氏神であり[8]、中島・辻久留・二俣・浦口の4地域が氏子となっている[4]。社宝は獅子頭1頭と享保6年(1721年)寄進の太刀1振の2点である[4]。

境内には稲荷神社、菅原道真を祀る上天神、伊勢津彦大神・伊勢津姫大神を祀る櫛玉宮のほか、他の神社の遥拝所などがある[15]。

上天神
上天神

櫛玉宮
櫛玉宮

上社稲荷大明神
上社稲荷大明神

撫で石
撫で石

牛頭夫婦楠
牛頭夫婦楠

橿原神宮遥拝所
橿原神宮遥拝所

[匿名さん]

#712024/06/01 15:07
被合祀社
上社は以下の13社を1909年(明治42年)に合祀している[注 3][16]。いずれも旧社格は無格社であった[16]。

社名 祭神 旧所在地 被合祀月日 備考
稲荷社 不詳 浦口町 3月7日 火除稲荷との説あり。
土井稲荷社 宇迦之御魂神 別名は姫ヶ池大明神。
大杉稲荷社
二俣菅原社 菅原道真 二俣町
田村社 不詳
稲荷社 上社境内 3月8日 祭神は宇迦之御魂神との説あり。
山神社 祭神は大山祗神・疱瘡神との説あり。
小川社 中島町
稲荷社 宇迦之御魂神
掃守社 天忍漁人命 伊勢市立中島小学校に神社跡の碑がある。
八幡社 誉田別命
浅間社 不詳
並社 上社境内 3月12日 旧称は八王子社。

[匿名さん]

#722024/06/01 15:08
祭神
神宮摂末社
志等美・大河内・打懸の3社は付近を流れる宮川の洪水から地域を守る堤防の守護神として祀られた[8]。

志等美神社の祭神は久久能智神(くくのちのかみ)[8]。周囲の林野の神であるが、堤防の神とも伝えられる[8]。『神名秘書』・『類聚神祇本源』は「木神」と記している[17]。

大河内神社の祭神は大山祗神(おおやまづみのかみ)[10]。堤防の守護神である[10]。『神名帳考証再論』では「水霊」、『神宮典略』では「水の神にもあらんか」と記載する[12]。

打懸神社の祭神は打懸明神(うちかけみょうじん)[10]。打懸の「かけ」は懸税(かけちから、稲穂)のことであり、五穀豊穣の神であるが、堤防の守護神でもある[10]。

上社の祭神
上社は、志等美・大河内両神社の祭神である久久能智神・大山祗神と、埴安神・宇迦之御魂神の4柱を当初からの祭神とし、宇迦之御魂神4座・菅原道真・天忍漁人命(あめのおしあまのみこと)・誉田別命・不詳2座の9柱を合祀している[14]。

[匿名さん]

#732024/06/01 15:08
歴史
創建から中世まで
志等美・大河内神社の創建は不詳であるが、延暦23年(804年)の『止由気宮儀式帳』には既に記載があり、少なくとも古代には祭祀を受けていたことが分かる[1]。『類聚神祇本源』によれば、大治3年(1128年)に志等美・大河内・打懸の3社の神階が正五位から従四位に昇級したという[18]。

志等美・大河内・打懸の3社は、戦国時代になると建て替えが行われなくなり荒れるに任せていたが、後代に地元の住民が産土神として崇めるようになった[14]。産土神となったこの神社は、永正16年9月(ユリウス暦:1519年9月)の記録では「二俣社」、大永6年12月(ユリウス暦:1527年1月)の記録では「二俣八王子社」、天文6年11月(ユリウス暦:1537年12月)の記録では「牛頭社」と記された[19]。

近世
寛文3年(1663年)、大宮司の河邊精長(大中臣精長)は志等美・大河内両社の旧社地を懸命に捜索したが見つからず、仮の鎮座地として、外宮宮域内の高倉山岩戸坂に社を設けた[20]。岩戸坂が選ばれたのは、度会常晨(桧垣常晨)がこの坂に末社として拝所をいくつか設置したためである[21]。精長の次男である長春は、元禄5年(1692年)の建て替えの際、「ヤバコ」・「ハナヒシゲ山」[注 4]と呼ばれていた辻久留南方の個人所有の地を購入し、そこへ志等美神社を遷座した[20]。なお、「ヤバコ」・「ハナヒシゲ山」に遷座した当初から正確な社地ではないとする意見があり、その後も本来の社地を探求する努力が続けられた[23]。

[匿名さん]

#742024/06/01 15:09
近代以降
明治3年10月(グレゴリオ暦:1870年10月 - 11月)、「牛頭社」の名前が仏教風であるとの理由で現社名「上社」に改称した[3]。明治4年11月2日(グレゴリオ暦:1871年12月13日)には、近代社格制度に基づき郷社に列し、明治5年10月(グレゴリオ暦:1872年11月)に村社に昇格した。

1883年(明治16年)、志等美・大河内・打懸の3社が旧社地である上社境内に復した[3]。1906年(明治39年)12月に上社が神饌幣帛料供進社の指定を受けた[3]。

志等美神社および大河内神社は1915年(大正4年)6月に、打懸神社は同年7月に建て替えられる[24]。また、志等美・大河内神社は1975年(昭和50年)11月18日にも造り替えられている[2]。

[匿名さん]

#752024/06/01 15:10
ツール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国会議事堂の上棟式(1927年4月7日)
上棟式(じょうとうしき)とは、建物の造営が成就した際に執り行われる建築儀礼[1]。この式礼は棟上げ(むねあげ)ともいう[1]。また、建前(たてまえ)、建舞(たてまい)ともいう。なお、英語ではトッピング・アウトが上棟式に相当するが、柱を建て始める立柱式(柱建て)を指している場合もある[2]。

日本の上棟式

上棟式の際に飾った幣串と破魔矢を担ぎ、棟梁送りをする様子を描いた錦絵。歌川広重『名所江戸百景』「大伝馬町呉服店」。当時の祝い柱は3mほどあった[3]
日本では上棟式は建築儀礼の中で最も重視されてきた[1]。竣工後も建物が無事であるよう願って行われるもので、通常、柱・棟・梁などの基本構造が完成して棟木を上げるときに行われる。

[匿名さん]

#762024/06/01 15:12
式典

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出典検索 TWL(2021年2月)
式の方法や次第に規定はなく、地域による差異もある。屋上に祭壇を設けそこで祭祀を行うものや、祭壇のみ屋上に設けて祭祀は地上で行うもの、祭壇も祭祀も地上のものの区別もある。

一般的には、最後の梁を建物の最上部に設置して屋根を完成させる際に行われ、梁に大工や建築主らが署名した後、梁を屋根に引き上げて固定し、その上に常緑樹の葉や枝で作った飾りや旗などを設置し、その後は一同で飲食を行う。常緑樹には、成長や幸運を祈る意味合いがある。

建前・棟上
建前、棟上とは普請を生業にする職人がいる地域では、棟梁(大工)が中心になり大工の作成した番付表(組み立て手順書の様な物)を見て鳶職が軸組みの組み立てを行い一番高い棟木を設置する一連の作業を指す。その最後の作業からその後の儀式を上棟式、棟上式という。

日本の上棟式には神道様式や仏教様式がある。

神道での様式
神社本庁では「諸祭式要鋼」で上棟式の基準を示している。それによれば、祭神は屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)、屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)、手置帆負命(たおきほおいのみこと)、彦狭知命(ひこさしりのみこと)および当地の産土神である。

まず、他の祭祀と同様に修祓・降神・献饌・祝詞奏上が行われる。
次に、上棟式特有の儀礼として、曳綱の儀(棟木を曳き上げる)、槌打の儀(棟木を棟に打ちつける)、 散餅銭の儀(餅や銭貨を撒く)が行われる。
最後に、他の祭祀と同様に玉串拝礼・撤饌・昇神・直会(なおらい)が行われる。

[匿名さん]

#772024/06/08 02:25
戸隠権現(読み)とがくしごんげん
世界大百科事典(旧版)内の戸隠権現の言及
【戸隠神社】より

…創建は850年(嘉祥3)と伝えるが,戸隠山を霊山とする山岳信仰に基づき,古くより修験の道場とされた。奥社,中社,宝光社の祭神の本地をそれぞれ聖観音,釈迦牟尼仏,将軍地蔵といい,奥社を奥院または本院,中社を中院または富岡院,宝光社を宝光院または福岡院と称し,この3社を戸隠権現,三所権現とよんだ。別当寺の顕光寺は俗に戸隠三千坊といわれ,隆盛をきわめた。…

※「戸隠権現」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

[匿名さん]

#782024/06/08 02:26
戸隠が文献にはじめて刻まれたのは平安時代。
その頃、戸隠がどういう存在であったか、
そして時代とともにどのように変わって行ったかをご紹介します。

千二百年の昔々 神々の物語はいつから? 修行道の霊場・戸隠 戦国の動乱と戸隠 江戸期の栄華 寺から神社へ、明治の戸隠
寺から神社へ、明治の戸隠
 慶応4年、明治維新の神仏分離令の発令によって、戸隠一山も「戸隠山顕光寺」から「戸隠神社」への転換を迫られます。
神領に関しては最終的に政府に没収され、寺から神社への移行は更に極端な「廃仏毀釈」の風潮を生み出しました。全国各地の社寺の例に漏れず、戸隠山の仏宝も、追放・排除の道をたどり姿を消していきました。
それらは、別の寺で大切に安置されている一方、破壊されたり、燃やされたり、埋められたりと、政府の政策の影響を多大に蒙った物もあるようです。
しかしながら先人達は、その様な窮地の中で神社への転換を選択し、九頭龍大権現は岩戸守大神としての九頭龍大神となり三院は現在の奥社・中社・宝光社と称するようになったのです。

[匿名さん]

#792024/06/08 02:27
千二百年の昔々
 「戸隠」の名が歴史的な文献に最初に登場するのは平安時代。平安中期の歌人で三十六歌仙のひとりとして知られる能因法師が11世紀の初め頃に著したとされる歌学書『能因歌枕』に、信濃国の歌枕のひとつとして出現します。「歌枕」すなわち和歌に詠み込まれる名所であったということは、当時、すでに戸隠が都の人々にも広く認知されていたということにほかなりません。  さらに300年ほどさかのぼる西暦800年代の中頃の話として、「学門」という名の行者が法華経の功徳によって、9つの頭と龍の尾を持つ鬼をこの地で岩戸に閉じこめたという言い伝えが、鎌倉中期に記された仏教書の中に残っています。実はこれこそ、日本神話の「天の岩戸」の物語に対向する、もうひとつの「戸隠」の起源です。
学門が実在の人物か否かは別として、平安初期には戸隠が山岳密教の霊山として注目されていたことは間違いなさそうです。
 1200年もの昔、自然が厳しく農耕さえままならないこの地に人が集まってきたのは、ひとえに戸隠山への信仰ゆえだったのです。寺ができ、宿坊ができ、やがて集落となって、和歌にも詠まれる名所となった戸隠。戸隠山の幽玄な空気は、今も少しも変わるところがありません。

対向?向き合うってコト?

[匿名さん]

#802024/06/08 02:28
神々の物語はいつから?
山岳密教の霊場として戸隠に行者が入るようになった平安時代には、戸隠山の神様は農耕の水を司る「九頭竜」で、まだ「天の岩戸開き」とのゆかりは語られていませんでした。
 「天の岩戸」と戸隠が文献上で完全に結びつくのは、室町時代。修行僧のひとり有通が、戸隠に関する数々の縁起本を整理・編集した『戸隠山顕光寺流記』の中のことです。以来、戸隠神社の御祭神は、岩戸開きに関わった神々と地主神であることが、神社の由緒として語り伝えられてきました。



修行道の霊場・戸隠
 平安末期、後白河法皇によって編纂された歌謡集『梁塵秘抄』に、「四方(よも)の霊験所」のひとつとして「信濃の戸隠」が登場しています。
鎌倉時代の頃には、戸隠は、高野山、比叡山に匹敵する一大霊場に数えられたといわれ、宿坊の数も増えて、「戸隠三千坊」と比喩されるほどの勢いでした。また、室町期には、戸隠信仰は善光寺信仰とセットで流布していたと見られ、多くの僧が戸隠、善光寺両方に参詣した模様を記した道中記が残されています。


戦国の動乱と戸隠
 越後の上杉謙信、甲州の武田信玄、戦国の世にこの人ありと知られた両雄の国盗りの舞台として、いく度もの戦禍に遭った信濃の国。山深い戸隠もまた、この戦と無縁ではありませんでした。

有名な「川中島合戦」の前戦地帯となってしまった戸隠の寺院、神社、僧坊などは、武田軍によって破壊されるか、移転を余儀なくされたのでした。山伏たちは移転先の小川村に避難したり、上杉方を頼って越後へ逃れたりしたと推測されます。この後、30年にわたり戸隠は荒廃の一途をたどります。
再興されたのは太閤秀吉の時代。当地を治めた上杉景勝が朝鮮出兵から無事帰還した後、渡海前の安全祈願に熱心であった戸隠衆徒の願いに応え、再興を支援したと伝えられます。

[匿名さん]

#812024/06/08 02:30
江戸期の栄華
 徳川の治世となった江戸時代、戸隠には家康により千石の神領が寄進され、将軍家に手厚く保護された独立領である「朱印」が与えられました。
この時、家康は「戸隠山法度(とがくしさんはっと)」を定め、幕府支配による寺院統制を義務付けます。この法度により、戸隠一山では、天台宗の宗教的な行事を執り行うようになりました。

また、顕光寺とりわけ中院(現中社)・宝光院(現宝光社)の門前には12の院坊が立ち並び、商人・職人・農民などで賑わう門前町として栄え、現在の村の原型はこの頃出来上がっていた様です。
朱印地となってからも、霊山戸隠の神域は、家康を始め歴代将軍により神領として大切にされ、刀剣・馬具などに至っては、徳川の葵の家紋があしらわれる程でした。

[匿名さん]

#822024/06/08 02:31
戸隠神社(とがくしじんじゃ)は、長野県長野市北西部の戸隠山周辺に、以下に記す五社を配する神社。旧社格は国幣小社。

歴史
創建
一説には現在の奥社の創建が孝元天皇5年(紀元前210年)とも言われるが、九頭龍社の創建はこの奥社よりもさらに古いとされている。伝承では、この地の地主神である九頭龍大神が、天手力雄命を迎え入れたといわれている。

縁起によれば、飯縄山に登った「学問」という僧が発見した奥社の地で最初に修験を始めたのが嘉祥2年(849年)とされている。

また『日本書紀』の天武紀には684年三野王(美努王)を信濃(現在の長野県)に派遣して地図を作らせ、翌685年に朝臣3人を派遣して仮の宮を造らせ、691年に持統天皇が使者を遣わし、信濃の国の須波、水内などの神を祭らせたとされていて、この水内の神が戸隠神社とする説もある。

当神社の御神体である戸隠山の名称は、天照大神が籠っていた天の岩戸を天手力雄命が力まかせに投げ飛ばしたとき、その一部が飛んできて山になったという伝説から生じている。

[匿名さん]

#832024/06/08 02:34
奥社(おくしゃ):祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、天照大神が隠れた天岩戸をこじ開けた大力の神。神話では天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が現在の戸隠山であるとされる。中社から車で2.5kmほど車道を登った後、まっすぐ続く約2kmの参道(車両進入禁止)を登りきった場所にある。途中に赤い「随神門(山門、顕光寺の時代は仁王門であった)」があり、その奥は17世紀に植えられたとされる杉並木になっている。神仏分離以前は随神門より奥の参道左右に子坊が立ち並んでいた。旧奥院。廃仏毀釈までは聖観音菩薩(現在は長野県千曲市の長泉寺本尊、仁王尊像は長野市の寛慶寺)を祀っていた。戸隠三十三窟「本窟」「宝窟」と言われる中心となる窟が奥社本殿内部にあるが、非公開なので内部に何があるのかは秘密とされている。

[匿名さん]

#842024/06/08 02:36
聖観音と仁王?

[匿名さん]

#852024/06/08 02:36
寛慶寺

所在地 日本の旗 日本 長野県長野市東之門町406
位置 北緯36度39分38.3秒 東経138度11分19.3秒座標: 北緯36度39分38.3秒 東経138度11分19.3秒
山号 寿福山(壽福山)
院号 無量院
宗旨 浄土宗
宗派 (鎮西派)
創建年 明応5年(1496年)
開基 栗田寛高
正式名 寿福山無量院寛慶寺
壽福山無量院寬慶寺
別称 栗田寺(旧称)
文化財 戸隠奥院仁王尊(長野市宝)
法人番号 8100005000374 ウィキデータを編集
寛慶寺の位置(長野県内)寛慶寺寛慶寺
寛慶寺 (長野県)
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寛慶寺(かんけいじ)は、長野県長野市東之門町にある浄土宗の寺院である。正式名称は、寿福山無量院寛慶寺。

概要
寛慶寺は、善光寺東門に隣接している山内寺院で、浄土宗(鎮西派)に属し、知恩院を総本山と仰ぐ。本尊は阿弥陀如来。

中世、戦国時代に至るまで代々、戸隠顕光寺(戸隠神社)や信州善光寺の別当として大いに権勢を振るった栗田氏[1]によって創立された。[2]

戦国時代には本尊留守の善光寺で確かな地位を占めていたことがわかっている。近世には西方寺・康楽寺と共に三寺と称されて重んじられた。[3]


霧吹きの獅子。下の柱部分に火災の跡が残る。
仁王門にある木造金剛力士像は明治初期の神仏分離による廃仏毀釈によって現在の戸隠神社の仁王堂(いまの随神門)から移設されたものであると伝えられ[4]、表門は善光寺大勧進から移築したものである。この門は善光寺大地震でも焼けず、明治24年(1891年)の大火でこの門も焼けかかったが、彫刻の獅子が霧を吹いて消し止めたと伝わるので、その獅子を霧吹きの獅子という。[3]

二つの市指定有形文化財を有している。

木造金剛力士像 - 阿形・吽形ともに檜材の一木造りで、像高は両者とも280cmである。単髻、彫眼で、肉身朱彩としている。「明応七年(1498)五月八日 安養寺林首座 願主浄泉十穀」の銘記があり、また、1707年・1774年の修理についての記録が残っている。[4]
木造百万塔 - 1908年、法隆寺は所蔵する百万塔の一部を譲与して同寺の基金とした。寛慶寺・大本願・往生寺・西光寺にある百万塔はこのとき譲り受けたものである。[5]

[匿名さん]

#862024/06/08 02:37
歴史
治承4年(1180年)に戸隠山顕光寺の別当であった栗田範覚により栗田に「栗田寺」として建立。[3]

永正年間(1504年~1521年)、栗田寛安が現在地に移し、父親・栗田寛慶の名を取って「寛慶寺」と名付けた。[3]

天正11年(1583年)、松代西念寺から洞誉春虎を招いて天台宗を浄土宗に改めた。[3]

寛永19年(1642年)や元禄元年(1668年)に火災に遭う。

文化13年(1816年)、全国巡錫中の徳本上人がここに13泊逗留した。[6]

弘化4年(1847年)の善光寺地震で焼失。[3]

明治16年(1883年)に至って再建された。[3]

徳本上人と寛慶寺
1816年、「流行神」とまで称された念仏行者・徳本上人は信濃を巡錫していたが、4月23日、寛慶寺に入り、その出発は5月7日だった。つまり、13泊もしていたことになる。その間、上人は善光寺に参籠している意識だったに違いない。『徳本行者伝』によれば、寛慶寺に逗留中のある夕、室内に善光寺如来が出現したという。上人が手を差し出すと、如来はその上に立った。[6]

徳本上人は「南無阿弥陀仏」と印刷した名号札を配布したが、寛慶寺では2万枚以上配布している。その名号札を受けた一人が小林一茶で、さらに十念も受けている。そこで詠んだ句が、

「居直るも銭の上也なむ桜」

である(『浅黄空』より)。このような縁があったため、2019年11月26日には寛慶寺にて「第3回念仏行者徳本上人研究会」が開催され、その内容は「徳本上人研究会便り」第2号に掲載された。[6]

[匿名さん]

#872024/06/08 02:39
戸隠三尊みたいな?

阿形・聖観音・吽形 ?

  一塔?

[匿名さん]

#882024/06/08 02:40最新レス
主要寺院

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鎮西派

[匿名さん]


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