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2024/06/12 04:40
爆サイ.com 甲信越版

🦪 出雲崎町雑談





NO.11631869

出雲崎出雲星社天領の里妙見菩薩
大は星なり
畏れ多いケガレなり
一本でも人参

イチゴ ニンジン サンダル
ヨット ゴマシオ ロケット
シチメンチョウ ハチ
クジラ ジュース

いっぽん にそく さんそう
よつぶ ごだい ろくわ
しちひき はっとう
きゅうはい じゅっこ

どこにイチゴ?

報告閲覧数895レス数372
合計:

#323
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#324
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#325
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#326
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#327
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#328
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#329
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#330
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#331
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#332
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#333
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#340
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#341
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#342
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#343
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#344
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#3452024/05/08 14:21
大国主がとどまるって決めたポイントなんだっけ?
まつるって?
アクセスポイント?
なんか神社とお寺を使い別けてる感じはあるよね。
役所もその割合をアレみたいな。

[匿名さん]

#346
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#3472024/05/31 13:25
磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。

概要
日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)であり、基層信仰の一種である。神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。

自然への信仰の例は岩以外にも、鎮守の森(「モリ」自体が神社をさし、杜は鎮守の森自身である)、禁足地としての「島」、宗像大社の沖ノ島、六甲比命神社や三輪山などの「山」に対する信仰、「火」に対する信仰、滝などから、風雨・雷という気象現象までの多岐にわたるものである。

[匿名さん]

#3482024/05/31 13:25
岩にまつわるものとして他にも、磐座を中心とした祭祀場である磐境(いわさか)があるとされる[1]が、こちらは磐座に対してその実例がないに等しい。そのため同一のものと目されることもある。『日本書紀』では磐座と区別してあるので、磐座とは異なるなにか、「さか」とは神域との境であり、神籬の「籬」も垣という意味で境であり、禁足地の根拠は「神域」や「常世と現世」との端境を示している。つまり磐境は、石を環状に配置した古代の遺跡であるストーンサークル(環状列石)と同じもので、そこを神聖清浄な場所として保存するための境界石を人工的に組んで結界を形成して「神域」を示している祭祀遺跡であり、神籬とともに神社の原始形態とされている。

現在ではご神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる榊などの広葉常緑樹を、神籬信仰や神籬と言い、山や石・岩などを依り代として信仰することを磐座という傾向にある。

街道沿いにある巨石では、馬頭観音が彫られたり、有名な武士が馬をつないだといった伝説が付されたりしたものもある。これらを含む磐座・巨石信仰を縄文時代に遡りうるとして、人工的に配列された磐座もあり、その配置が特定の図形や方位、あるいは星座の形などを表わしていると主張する研究団体(イワクラ学会)がある[2][3]。こうした見解に対して、そもそも磐座祭祀が開始されたのは古墳時代に入ってからであるとの指摘[4]や、巨石を人工物とする説への批判がある[5]。

1999年には恵那市山岡町にて第一回イワクラ・サミットが開催された[6]。

[匿名さん]

#3492024/05/31 13:26
六甲比命大善神社
多聞寺奥の院、六甲比命神社
所在地 兵庫県神戸市灘区六甲山町
位置 北緯34度45分58.72秒 東経135度14分21.91秒座標: 北緯34度45分58.72秒 東経135度14分21.91秒
主祭神 六甲比命大善神(瀬織津姫)
神体 磐座
地図
六甲比命大善神社の位置(神戸市内)六甲比命大善神社六甲比命大善神社
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六甲比命大善神社(ろっこうひめだいぜんじんじゃ)は、兵庫県神戸市灘区六甲山町にある、荘厳な磐座をご神体とする神社である。

六甲山頂尾根付近に位置し、近くには六甲山カンツリーハウス敷地内に天穂日命の磐座もある。

仰臥岩、雲が岩、心経岩の中間地点に位置する壮大な磐座が御神体で、7世紀にインドから渡来した法道仙人が創建した吉祥院多聞寺(神戸市北区唐櫃)の奥の院となっている[1]。

祭神
六甲比命大善神(弁財天・吉祥天)=撞賢木厳魂天疎向津姫(瀬織津姫)
祭神名は六甲の山名の変遷とともに変わってきたようである。水の神としての神徳は六甲周辺において、日本三大名泉の有馬温泉、布引の滝のKOBE WATER、灘五郷の宮水に顕著である。

六甲山は江戸時代以前には武庫という漢字があてられ、むこうやま、むこやまと呼ばれ、さらに古くは、賀茂真淵の『冠辞考』 あまざかるの項に記されているように、向かつ峰の名が伝わるので、祭神名は当初はむかつひめと呼ばれ、近世まではむこうひめとよばれていたと思われる。六甲は「むかつ」と読める。

六甲山は、かつて西宮市廣田神社の社領であり[2]、廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ 又の名を瀬織津姫[要出典])と六甲山の旧名の向かつ峰の名称が一致する。

[匿名さん]

#3502024/05/31 13:26
座(ざ)は、平安時代から戦国時代まで存在した主に商工業者や芸能者による同業者組合のこと。貴族・寺社などに金銭など払う代わりに営業や販売の独占権などの特権を認められた。

概要
座という呼び名の由来については、いろいろな説があるが、主として「公的な場所や市場内における特定の座席という意味に由来する」とする説と、「同業者による集会の場という意味に由来する」とする説の2説があり、長年議論の対象となってきた(「座論争」)。

今日では、「本来は一定の有資格者が一堂に会する場を指し、両方の意味合いを有していた」とする説が有力である。また、地縁的結合をもって結成される場合もあり、「里座」・「町座」と呼ばれる里単位・町単位の座も結成された。座は公家や寺社を本所として座役を納め、あるいは奉仕を行い、本所は座の構成員である座衆に供御人・寄人・神人などの身分を与えてこれを保護した。

記録上に残る最古の座は青蓮院を本所とする八瀬里座である。杣伐夫や駕輿丁によって構成され、青蓮院の本山である延暦寺や朝廷に奉仕を行い、後の八瀬童子の源流となった。鎌倉時代に入ると大都市や商工都市を中心として座の数が増加した。代表的なものとしては、京都において後の西陣の源流となった大舎人の織手座や祇園社の綿座・錦座、北野社の麹座、山城大山崎の油座、摂津今宮の魚座、鎌倉の材木座、博多の油座などがあり、大和の興福寺や近江の日吉大社も多数の座を支配下に置いたことで知られていた。

座は仕入の独占を行い、必要に応じてその商品の運搬路や運送具の独占すら行った。また、本所の政治力を背景として関所における通行税や市場における営業税の免除の特権を獲得した。その一方で自己の専売を確立した市場では、座外の商人・職人の営業を禁止して座衆による独占を図り、座に属する小規模業者の維持に努めた。また、座同士の連携なども盛んに行われ、生産地の座と消費地の座が連携したり、大都市の座が地方の座を支配したりすることが行われた。

[匿名さん]

#3512024/05/31 13:27
だが、室町時代に入ると座を取り巻く環境に変化が生じるようになる。京都における官衙を含めた領主権力が強化され、座の権威を無視して営業税をかけたり、地方の商工業者が地元の領主と結びついて座の権威打破を図ろうとした。こうした中で座も変質していき、本所から自立した営業集団に転化したり、官衙や領主との結びつきを強めて中にはこれらを新たな本所するものが出現したり、座衆の数を制限して世襲特権化を図ろうとした。それに対して新興商人側も「新座」と呼ばれる座を結成して既成の座と同様の特権を求める動きが現れ、更に「孫座」と呼ばれる第三の座すら現れる例もあった。

織田信長が新都市に楽市・楽座をおこない、最終的に豊臣秀吉によって中世の座は解体させられた。これによって座の特定は否認されたが、反対に領主と結びついた特定の御用商人による支配が確立するきっかけとなった。ただし、全ての座が解体した訳ではなく、座役を伴わない商業共同体として残ったものもある。また、芸能者では主要な大夫を家元とする芸能集団としての座が形成され、江戸時代以後に「○○座」という呼称で呼ばれるようになり、転じて劇場や映画館の名称としても用いられた。

江戸時代には幕府の管理下に金座・銀座などが作られた。

関連項目
神人
供御人
株仲間
ギルド
カルテル
宮座
青苧座
米座
材木座
塩座

[匿名さん]

#3522024/05/31 13:28
磐に宿る神ってことなんだよね?
見えない磐?ってのも1つあるんだよね?

塞ぎの神でもあったけどアレだよね。

よもつおおがみに後から?じゃあ最初のよもつおおがみは?

花窟神社
参道入口の鳥居
鳥居
所在地 三重県熊野市有馬町上地130番地
位置 北緯33度52分47.5秒 東経136度5分36秒
主祭神 伊弉冉尊、軻遇突智尊
神体 磐座
創建 不詳
例祭 2月2日(春季)
10月2日(秋季)
主な神事 御縄掛け神事
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花窟神社(花の窟神社、はなのいわやじんじゃ)は三重県熊野市有馬町に所在する神社。伊弉冉尊(伊弉冊尊[1]、いざなみのみこと)と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)を祀る[1]。

[匿名さん]

#3532024/05/31 13:28
概要

七里御浜から見た神体の巨岩
『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。当社では、それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるものである[2]。

神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる[3]高さ6メートル、幅2.5メートル、深さ50センチメートルほどの[4]大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ[3]、白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられている[4]。一説には、伊弉冉尊を葬った地はおよそ西1.3キロメートル先にある産田神社(うぶたじんじゃ)であり、当社はこの火の神である軻遇突智の御陵であるともいう。花窟神社では、伊弉冉尊の拝所の対面にある高さ18メートルの巨岩が、軻遇突智の墓所とされている[5]。

古事記や延喜式神名帳に「花窟神社」の名はなく、神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。実際、神社の位格を与えられたのは明治時代のことである。

今日に至るまで社殿はなく、熊野灘に面した高さ約45メートルの巨岩である磐座(いわくら)が神体である[2]。この巨岩は「陰石」であり、和歌山県新宮市の神倉神社 の神体であるゴトビキ岩は「陽石」であるとして、一対をなすともいわれ[3][4]、ともに熊野における自然信仰(巨岩信仰・磐座信仰)の姿を今日に伝えている。

2004年、ユネスコ世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部(熊野参詣道伊勢路の一部)として登録された。

[匿名さん]

#3542024/05/31 13:29
塞の神(さいのかみ)

原義
日本の民間信仰における神の一つ。村や部落の境にあって、他から侵入するものを防ぐ神。岐の神を参照。

地名
町・字
塞の神 (羽後町) - 秋田県雄勝郡羽後町塞の神

[匿名さん]

#3552024/05/31 13:29
岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。

別名、久那土神、久那止神、久那戸神、久那斗神、車戸神、来名戸祖神、岐神、衝立船戸神、車戸大明神、久那度神、クナド大神、クナトの神、クナト大神、熊野大神、久刀。

概要
「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味[1]。もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神である。

道祖神の原型の1つとされる[1][注釈 1]。読みをふなと、ふなど -のかみともされるのは、「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある[2]。以下のように、意味から転じた読みが多い。岐(ちまた、巷、衢とも書く)または辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)[3]、峠の神、みちのかみとも言う。また、障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ、さい -のかみ(障の神、塞の神)[4]、さらに「塞ぐ」の意味から転じて幸の神、生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもある[4]。

神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと[1])」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。

[匿名さん]

#3562024/05/31 13:30
『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。これは『古事記』では、最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている。

なお、道祖神は道教から由来した庚申信仰と習合して青面金剛が置かれ、「かのえさる」を転じて神道の猿田彦神とも習合した。

さらに、同祖神は仏教とも習合しており、祇園精舎と薬師如来の守り神であった山王神(仏教的には大威徳明王)が、庚申の日に生まれたことから、庚申講や庚申塚などの風習が奈良時代までは大流行していた。(その経緯は『平家物語』に詳しい)

ちなみに猿田彦を祀る石碑には「日の丸」が彫られるが、山王神を祀る庚申塚には梵語が掘られており、同一神の神道的な解釈と仏教的な解釈の違いとみられる。

治安が安定してくる平安後期以降は、往来に置かれた道祖神は道標(みちしるべ)としての役割を持つようになる。仏教の説く六道輪廻の概念から生じた末法思想を背景に、六道に迷った衆生を救う地蔵菩薩信仰が民間で盛んとなり六地蔵が置かれるようにもなった。

また、宮城県塩竈市に鎮座する鹽竈神社の別宮に祀られている塩土老翁神は、江戸時代には岐神と同一の神であるとされたことがある(詳しくはシオツチオジの項を参照されたい)。

[匿名さん]

#3572024/05/31 13:31
注釈
^ 道祖神信仰は、複数の信仰の習合によって成り立っており、明確に起源を特定するのは難しい。
出典
^ a b c 日本人名大辞典+Plus『来名戸之祖神』。
^ 吉田茂樹『ひょうごの地名』p.20。
^ 大辞泉「ふなど‐の‐かみ【岐神】」
^ a b 大辞泉『道祖神』。
関連項目
日本の神の一覧
息栖神社
武蔵府中熊野神社古墳 - 車戸村(旧名)に所在。
久那土(山梨県身延町)‐旧久那土村に由来
出雲族
辻神
石敢當

外部リンク
徳島県下における岐神信仰に関する言説 近藤直也、九州工業大学、2013年
【現社名】久那止荒魂神社「車戸大明神」「久那止神社」「車戸神社」愛称「くるまどさん」【里宮】中和神社
【由緒】貞観6年(864)従五位上 大正2年3月村名を以て社号となし中和神社と改称【関係氏族】車戸

四国を九州の人が研究したと?

[匿名さん]

#3582024/05/31 13:33
岩に宿ったっていうと、戸隠神社が一番有名になりそうなのか?
イザナミがなんでハナノイワヤ?って言われるとアレだよね。

天照が岩にこもった話。
岩の中は天照。
外で他の神々っていう記録だよね。
見えないものを記録したような?
楽しいとよくなっていくらしいんだっけ?
ただ、あいつの話だけは、いただけないぜ?
部分テンだとダメって世界もアレだよね。

戸隠神社
中社大鳥居
中社大鳥居
所在地 長野県長野市戸隠3690
位置 奥社/九頭龍社:
北緯36度45分56.2秒 東経138度3分43.5秒
中社:
北緯36度44分32.6秒 東経138度5分6秒座標: 北緯36度44分32.6秒 東経138度5分6秒
火之御子社:
北緯36度44分8.5秒 東経138度5分1.1秒
宝光社:
北緯36度43分56.9秒 東経138度4分33.1秒
主祭神 天手力雄命
神体 戸隠山
社格等 旧国幣小社
創建 不詳(九頭龍社)
伝孝元天皇5年(奥社)
天暦3年(949年)(宝光社)
寛治元年(1087年)(中社)
承徳2年(1098年)(火之御子社)
別名 戸隠権現
戸隠三社
戸隠三所権現
地図
戸隠神社の位置(長野県内)奥社/ 九頭龍社奥社/
九頭龍社中社中社火之御子社 /宝光社火之御子社
/宝光社

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[匿名さん]

#3592024/05/31 13:33
戸隠神社(とがくしじんじゃ)は、長野県長野市北西部の戸隠山周辺に、以下に記す五社を配する神社。旧社格は国幣小社。

歴史
創建
一説には現在の奥社の創建が孝元天皇5年(紀元前210年)とも言われるが、九頭龍社の創建はこの奥社よりもさらに古いとされている。伝承では、この地の地主神である九頭龍大神が、天手力雄命を迎え入れたといわれている。

縁起によれば、飯縄山に登った「学問」という僧が発見した奥社の地で最初に修験を始めたのが嘉祥2年(849年)とされている。

また『日本書紀』の天武紀には684年三野王(美努王)を信濃(現在の長野県)に派遣して地図を作らせ、翌685年に朝臣3人を派遣して仮の宮を造らせ、691年に持統天皇が使者を遣わし、信濃の国の須波、水内などの神を祭らせたとされていて、この水内の神が戸隠神社とする説もある。

当神社の御神体である戸隠山の名称は、天照大神が籠っていた天の岩戸を天手力雄命が力まかせに投げ飛ばしたとき、その一部が飛んできて山になったという伝説から生じている。

[匿名さん]

#3602024/05/31 13:34
平安時代から室町時代
平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山(延暦寺)、高野山(金剛峯寺)と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた。

平安末期には、霊場としての戸隠は京の都でもよく知られていたらしく、『梁塵秘抄』には「四方の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山…」とうたわれるまでになっていた。

当山(延暦寺山門派)の別当職であった栗田氏が鎌倉時代以後は山麓の善光寺(園城寺寺門派)別当をも世襲したこともあって両寺は関連を強め、参詣者は一度に両方を共に参詣することが多かった。 顕光寺は、『吾妻鏡』文治2年条に延暦寺の荘園末寺として登場する。また顕光寺は善光寺(水内)、八幡神宮寺(更級)、津金寺(佐久)、光前寺(伊那)と共に信濃国の天台五山と数えられた。

室町時代には戸隠神社で天台・真言両宗の法論闘争が発生、応仁2年(1468年)天台派の宣澄法師が真言派に暗殺された。後世に至って宣澄の供養のため、宝永5年(1708年)に宣澄社が建立され、村人によって毎年8月16日の中社の例祭に「宣澄踊り」が奉納されるようになった。

[匿名さん]

#3612024/05/31 13:34
戦国時代
戦国時代に北信濃地域は信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信豪族の後ろ盾となった越後国の上杉謙信との争乱(川中島の戦いなど)に巻き込まれた。これによって戸隠神社と善光寺の別当である栗田氏が分裂するなどして両軍によって絶えず危機に晒された。このため、衆徒らが約30年間にわたり水内郡小川の筏が峰(現在の長野県上水内郡小川村)に大日方氏の庇護を受けて移り住むなど苦境の時期であった。

川中島の戦い当時は、多くの修験者と信仰者集団を抱えていた戸隠神社や飯縄神社(飯綱神社)は武田、上杉両軍の双方にとってぜひ味方につけたい存在であり、修験者は広く各地の情報に通じ多くの人々を牽引し戦況を占い、何より薬草の知識は従軍医師としての期待が大きかった。このため善光寺や、戸隠、飯綱を味方にするか敵に回すかは極めて重要であったため、これらを巡って戦火に巻き込まれ熾烈な戦闘が繰り返されている。

江戸時代
江戸時代に入り徳川家康から朱印高千石を与えられて「戸隠山領」が成立。同時に東叡山寛永寺の末寺となり、次第に農業や水の神としての性格が強まり、山中は次第に修験道場から門前町へと変貌していった。

明治以降
明治時代に入ると明治政府によって神仏分離令や修験宗廃止令が次々と出され、その結果、廃仏毀釈運動が起きたため、戸隠山顕光寺は寺を分離して神社となり、宗僧は還俗して神官となった。 なお当時戸隠の寺院に奉られていた仏像などは、戸隠近隣の村の寺院などに現在も伝わり祀られている。

2020年秋、老朽化によって建て替えられた戸隠神社中社の大鳥居が完成予定[1]。柱と島木をつなぐ「ほぞ」には新型コロナウイルス終息を願い「疫病鎮静」と記された[1]。

[匿名さん]

#3622024/05/31 13:35
構成各社と祭神

宝光社
各社の主祭神は、地主神である九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)以外は「天照大神(あまてらすおおみかみ)が、弟である素戔嗚尊(すさのおのみこと)の度重なる非行を嘆いて天岩戸(あまのいわと)に隠れたため、この世に暗黒と悪神がはびこった」とされる神話にまつわる神であるが、それぞれがいつ頃から現在の祭神を祀るようになったかは必ずしも明らかでない。しかし他の多くの神仏習合の神社とは異なり、祭神は江戸時代以前から変わっていない。

宝光社(ほうこうしゃ):現在地への鎮座は康平元年(1058年)、天暦3年(949年)に阿智祝部一族の徳武氏[2]が奥社の相殿として創建されたものである。祭神は天表春命(あめのうわはるのみこと)で、中社の祭神である天八意思兼命の子。学問や技芸、裁縫、安産や婦女子の神とされる。麓から登ってきて最初にあり、うっそうとした杉木立の階段を上って参拝する。旧宝光院。

[匿名さん]

#3632024/05/31 13:35
火之御子社(ひのみこしゃ、日之御子社とも書く):創建は承徳2年(1098年)。祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)。他に高皇産霊命(たかみむすびのみこと)、その娘である栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)、栲幡千々姫命の夫である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を祀る。天鈿女命は天照大神が隠れた天岩戸の前で面白おかしく踊って天照大神を誘い出すきっかけをつくったとされる女神。舞楽や芸能、また火防の神とされ、宝光社の上1.5kmほどの場所にある。なお、他の4社が神仏混淆であった時代も当社だけは一貫して神社であって、かつての顕光寺とは関係がない。

中社前の三本杉(天然記念物)

中社 拝殿

随神門(補修・葺き替え前)、奥社および九頭龍社参道の途中にある

奥社および九頭龍社参道の杉並木

奥社本殿、背後は戸隠山の絶壁
中社(ちゅうしゃ):「戸隠山顕光寺流記」によると、寛治元年(1087年)に当時の別当が、「当山は三院たるべし」という夢告を受け、奥院(現在の奥社)と宝光院(現在の宝光社)の中間に位置するこの地に中院(現在の中社)を創建したと記されている。現在の祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)で、天照大神が天岩戸に隠れたとき岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったとされる神。知恵の神ともされる。境内周辺には樹齢約900年の三本杉があり天然記念物に指定されている。火之御子社の上1.5kmほど。旧中院。

[匿名さん]

#3642024/05/31 13:36
九頭ってさ、結局八岐大蛇って天照おめーなんじゃねえのか?ってのがスサノオのアレっしょ。
頭1つ足して九頭竜とか天照とかアレだよね。
あめのむらくも?
あめのうずめ?

むらくもがうずになって?

九頭龍社(くずりゅうしゃ):祭神は九頭龍大神。奥社のすぐ下にあり境内社のようになっているが創建は奥社より古くその時期は明らかでない。地主神として崇められている。戸隠山には「戸隠三十三窟」といわれる洞窟が点在し、その「龍窟」にあたる。本殿から本殿右手上の磐座の上まで廊下が続いており、そこが「龍窟」となる。古くは雨乞い、縁結びの他、虫歯・歯痛にご利益があると言われていた。氏子の人によると戸隠の九頭龍大神は梨が好物だそうである。

奥社(おくしゃ):祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、天照大神が隠れた天岩戸をこじ開けた大力の神。神話では天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が現在の戸隠山であるとされる。中社から車で2.5kmほど車道を登った後、まっすぐ続く約2kmの参道(車両進入禁止)を登りきった場所にある。途中に赤い「随神門(山門、顕光寺の時代は仁王門であった)」があり、その奥は17世紀に植えられたとされる杉並木になっている。神仏分離以前は随神門より奥の参道左右に子坊が立ち並んでいた。旧奥院。廃仏毀釈までは聖観音菩薩(現在は長野県千曲市の長泉寺本尊、仁王尊像は長野市の寛慶寺)を祀っていた。戸隠三十三窟「本窟」「宝窟」と言われる中心となる窟が奥社本殿内部にあるが、非公開なので内部に何があるのかは秘密とされている。

現在の奥社、中社、宝光社の3院は天台系であり、これと激しく抗争して約500年前に滅亡したとされる西光寺など真言系の寺院が存在していた事も知られている。

[匿名さん]

#3652024/05/31 13:39
旧美?
九尾がアマテラスの御魂であるといわれる羽化の御魂とかでアレとか?

なんか高志国のアレだけど、信州にアレなんでしょ?
八岐大蛇をまつるところ。

[匿名さん]

#3662024/05/31 13:40
多賀宮

所在地 三重県伊勢市豊川町279
位置 北緯34度29分7.4秒 東経136度42分13.8秒座標: 北緯34度29分7.4秒 東経136度42分13.8秒
主祭神 豊受大御神荒魂
社格等 式内社(大)
豊受大神宮別宮
創建 804年以前
本殿の様式 神明造
地図
多賀宮の位置(三重県内)多賀宮多賀宮
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多賀宮(たかのみや)は三重県伊勢市豊川町にある外宮(豊受大神宮)の境内別宮である[1][2]。 第62回神宮式年遷宮(2013年)では、別宮の中では荒祭宮に次いで10月13日に遷御が行われた[3]。

概要

拝殿

多賀宮への石段

式年遷宮により建てられた新社殿と旧社殿
多賀宮(たかのみや)は外宮正宮南方の檜尾山(ひのきおやま)にある[4]。別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされる。

外宮の別宮は多賀宮のほか、境内に土宮(つちのみや)と風宮(かぜのみや)、境外に月夜見宮(つきよみのみや)があるが(合計四所)[5]、多賀宮がもっとも古く、外宮の4別宮のうち、『止由気宮儀式帳』(804年)と『延喜式神名帳』に記載されているのは多賀宮のみである[6]。祭神が外宮の祭神の豊受大御神の荒魂である豊受大御神荒魂(とようけのおおみかみのあらみたま)であることから、4別宮の中で最高位とされる[1][2]。

正宮前の池の横の亀石を過ぎ[7]、土宮と風宮の間にある石段を98段登った丘の上に多賀宮がある[8]。亀石は高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられている。多賀宮の前の参道には、寝地蔵さんと呼ばれる、地蔵菩薩のように見える石がある[9][10]。

足腰が悪く丘の上に登れない者のために、麓の池のほとりに多賀宮遥拝所が設けられている。

内宮の荒祭宮、外宮の多賀宮とも、神宮第一の別宮(荒魂)には双方とも鳥居がない[10]。詳しい理由は不明[10]。

[匿名さん]

#3672024/05/31 13:41
祭神
豊受大御神荒魂(とようけのおおみかみのあらみたま)[11][12]。
『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』では豊受大神荒魂の別名として、黄泉から戻ってきた伊弉諾尊の禊で誕生した伊吹戸主(祓戸大神)[13][14]、または伊吹戸主神の別名として神直毘神とする(禊祓と三貴子の誕生)[15][13][16]。
歴史
由緒は定かではないが、雄略天皇22年(478年)の外宮創祀と同時に創建されたと伝えられている[1][17]。 神宮ではおおむね高宮(たかのみや)と呼称されていたが[1][17]、明治以降は『延喜大神宮式』を基準としたため『高宮』の表記は廃止され、多賀宮のみの標記となった[2]。縁起のよい字を当て多賀宮(たかのみや)になったともいう。従って多賀大社(こちらは「たが」と濁って読む)やその祭神である伊邪那岐命・伊邪那美命とは関係がない。ただし豊受大神荒魂(多賀宮祭神)は伊弉諾命が禊祓した際に誕生した伊吹戸主の別名ともされる[15]。

多賀宮専用の忌火屋殿があったが、明治に廃止された[2]。第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月29日、宇治山田空襲により御階が燃えたものの、警備隊が体をこすりつけて消火し、社殿は無事であった[18]。

[匿名さん]

#3682024/05/31 13:43
正宮に次ぐお宮を別宮といいます。内宮の域内には「荒祭宮」・「風日祈宮」の2所の別宮が鎮座しています。

域外の別宮はこちら

月読宮 / 瀧原宮 / 伊雑宮 / 倭姫宮

荒祭宮
御祭神
天照大御神荒御魂


天照大御神の「荒御魂」を
お祀りする、内宮第一の別宮

荒祭宮は、内宮に所属する十所の別宮のうち、第一に位しています。殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、正宮に次ぐ大きさです。ご祭神は、天照大御神の荒御魂。神様の御魂のおだやかな働きを、「和御魂」と申し上げるのに対して、荒々しく格別に顕著なご神威をあらわされる御魂の働きを、「荒御魂」とたたえます。

御鎮座地
荒祭宮は御稲御倉、外幣殿を越えて、石段を下りると正宮の北方、やや小高い所に鎮座しています。
域内マップ

青字:用語説明を表示します

荒祭宮の由緒と沿革
延暦23年(804)撰進の『皇太神宮儀式帳』に、「荒祭宮一院 大神宮の北にあり、相去ること二十四丈 大神宮の荒御魂宮と称す」とあり、延長5年(927)成立の『延喜太神宮式』に「荒祭宮一座 大神の荒魂」とも見えます。

お祭りについては、正宮に準じる第一別宮として特別丁重に行われます。
祈年祭・神嘗祭・新嘗祭の奉幣の儀も、正宮につづき勅使が参向して幣帛が奉られます。又、神饌の種類や数量も正宮とほとんど同じものがお供えされます。


神嘗祭奉幣の儀 勅使が参向されて幣帛が奉られます
大祭中の大祭、式年遷宮も、古くから正宮に準じて執り行われています。応仁の乱のころ、長く中絶の止むなきに至った時代もありましたが、寛永8年(1631)には再び式年御造替の制が復興され現在に至っています。また、古くからの大祭、神御衣祭が行われるのは、皇大神宮と荒祭宮のみであることからも、この宮の特別な神位がうかがわれます。

[匿名さん]

#3692024/06/01 00:34
天照「何言ってんのよ!あたしが八岐大蛇なわけないじゃない!え?あめのむらくものほう?そっか。」


おいおいナニから出てきたと思ってるんだい!?

[匿名さん]

#3702024/06/12 04:38
妙見信仰の発展
信濃から関東・東北にかけての牧場地帯に多く見られる信仰で、「七」を聖教とし、将門伝説とは関係が深い[12]。 北斗七星の内にある破軍星(はぐんせい)[注釈 2]にまつわる信仰の影響で、妙見菩薩は軍神として崇敬されるようになった。密教経典『仏説北斗七星延命経』(唐代成立、大蔵経1307)[13]では破軍星が薬師如来と同一視されたことから[注釈 3]、妙見菩薩は薬師如来の化身とみなされた[14][15]。なお、薬師如来のほか本地仏に十一面観音[4][16]あるいは釈迦如来[17]を当てる例もある。


千葉氏が使用した九曜紋の中央の星が北極星(妙見菩薩)を表すという説がある[18]
中世においては、鷲頭氏、大内氏、千葉氏や九戸氏が妙見菩薩を一族の守り神としていた。千葉氏は特に妙見信仰と平将門伝承を取り込み、妙見菩薩を氏神とすることで一族の結束を図った[注釈 4]。千葉氏の所領であった地域にも、必ずと言っていいほど妙見由来の寺社が見られる。千葉氏の氏神とされる千葉妙見宮(現在の千葉神社)は源頼朝から崇拝を受けたほか、日蓮も重んじた。また、千葉氏が日蓮宗の中山門流の檀越であった関係で妙見菩薩は日蓮宗寺院に祀られることが多い[6][19]。


玄天上帝(真武大帝)

[匿名さん]

#3712024/06/12 04:40
中世初期に中国から伝来し陰陽道に取り入れられた「太上神仙鎮宅七十二霊符」(「太上秘法鎮宅霊符」とも)と呼ばれる72種の護符を司る鎮宅霊符神(道教の真武大帝に比定)とも習合された。大阪府にある小松神社(星田妙見宮)では元治元年(1865年)の鎮宅霊符の版木が伝わっており、現在もこの霊符が配布されている[4][20]。妙見信仰の聖地として有名な能勢妙見山(同府豊能郡能勢町)でも鎮宅霊符神と妙見菩薩が同一視されている[21]。

以上に加えて、地域によっては水神、鉱物神・馬の神としても信仰された。能勢がキリシタン大名の高山右近の領地であったことと、キリシタンの多い土地に日蓮宗の僧侶が送り込まれたことから、隠れキリシタンは日蓮宗系の妙見菩薩像(いわゆる能勢妙見)を天帝(デウス)に見立てたともみられている[4]。

江戸時代の平田篤胤の復古神道においては、『古事記』や『日本書紀』に登場する天之御中主神は天地万物を司る最高位の神、または北斗七星の神と位置づけられた。その影響で、明治維新の際の神仏分離令によって「菩薩」を公然と祀れなくなってしまった多くの妙見神社の祭神が天之御中主神に改められた[4]。

[匿名さん]

#3722024/06/12 04:40最新レス
妙見菩薩

日輪・月輪・紀籍・筆を持つ四臂の尊星王(妙見)
名 妙見菩薩
梵名 スドリシュティ(सुदृष्टि, Sudṛṣṭi)[1][2]
別名 妙見尊星王、北辰菩薩、妙見天 等
経典 『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』
関連項目 薬師如来・十一面観音・吉祥天・玄武
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妙見菩薩(みょうけんぼさつ、旧仮名遣:めうけんぼさつ)は、北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。尊星王(そんしょうおう)、妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)、北辰菩薩(ほくしんぼさつ)などとも呼ばれる[3]。

概要

妙見菩薩像(千葉県市川市大野町 本光寺)
妙見信仰の由来・拡散
妙見信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである[4]。「菩薩」とは、本来「ボーディ・サットヴァ」(梵語:bodhisattva)の音写で、「菩提を求める衆生」の意であり、十界では上位である四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)の一つだが、妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら実質は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されている[4][5]。

道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、「妙見菩薩」と称するようになったと考えられる[6]。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである[7]。

[匿名さん]


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