中国と韓国の歴史は嘘ばっか、在日が学んだ歴史も嘘ばっか
[匿名さん]
悲劇な淀の方。
浅田長政の長女に生まれ、
小谷城炎上で、父長政を亡くし。
北ノ床で城炎上と共に、母と二人目の父柴田勝義を亡くし。
本能寺の変で伯父織田信長を亡くし。
豊臣秀吉の庇護をうけて、長男鶴松を亡くし、次男秀頼誕生。
豊臣秀吉の死によて、戦いの火蓋が始まり
1、600年天下分け目の勝戦、関ケ原の戦いで豊臣方の敗北で徳川家康の天下。
大坂城落城により、淀の方と秀頼自決!
[匿名さん]
淀君の話が出ているので、ちょっと疑問が有ります。
豊臣秀吉は種無しだったのでは?
百姓の出でしかも猿に例えられる小男だった。
十分な栄養が無い時代に育った事を考えると種無しだった可能性はかなりの確率ではないでしょうか?
しかも何人もお妾さんがいたのに妊娠したのは淀君だけ、しかも二度も淀君だけ妊娠したなんて。
どう考えても変な話ではないでしょうか?
[疑問◆WcoRLFFo]
(^_^)/
ご丁寧にありがとうございます。
やはり皆さん疑問に思っているんですね。
現代ならDNA鑑定したいですね。
日本一出世した男が可哀想な話です。
[疑問◆ZmUzZWYx]
【歴史】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋・金西寺文書に辛辣な批判記述…恨み辛み込め「苛政暴虐枚挙に堪えず」弾圧時の仏教界感情示す
「當寺御開山御真筆」は、江戸時代を代表する高僧の月岑牛雪大和尚が1619年頃、金西寺を開く際に書いたとされる。寺宝として長く収蔵されていたが、高崎俊幸住職(60)が豊橋創造大の島田大助教授(53)=日本近世文学=に解読を依頼した。
その結果、文書の冒頭に江湖散人という僧侶の詩文が引用されていることが分かった。1582年6月の本能寺の変の翌月に書かれたとみられるその詩文では、仏教を弾圧した織田信長を「大猿」「黒鼠」と蔑(さげす)むように表現し、「苛政暴虐枚挙に堪えず」と告発している。信長の治世を公家が糾弾した例はあるが、僧侶がここまで過激に書くのは珍しいという。
江湖散人と同一人物とされる集雲守藤は、子どもの頃に信長による比叡山延暦寺の焼き討ちを間近に見た可能性がある。辛辣な書きぶりから、島田教授は「信長に対する恨み、つらみが普通ではなかった」と当時の仏教界の心情を推し測る。
[匿名さん]
豊臣秀吉て渡来人か
現在の名古屋人そのものという気がするが
[匿名さん]
信長が天下統一目指してた頃の仏門は権力がありすぎたでしょ
平清盛の頃も僧兵が押し問答、いちゃもんつけたり
宗教が勢力をもつと、民兵もでてきて一向一揆
まあ邪魔だよね
[匿名さん]