07月07日 22:00 名鉄常滑線
21:32頃、大江駅で発生した人身事故の影響で、現在も神宮前〜太田川駅間の運転を見合わせています。また、運転区間の一部列車に遅れや運休が出ています。
[匿名さん]
08月10日 11:00 名鉄常滑線
台風11号の影響で、現在も一部列車に遅れや運転変更が出ています。
[匿名さん]
大野町駅の細い通りに路駐するなよ。
てめえの道路じゃねーよ。
対向車のこと考えよ
もしかして軽しか通らないと思ってるの(笑)
[匿名さん]
前期渋沢資本主義の時代、それも明治期にあって、資本主義の草創期を支えた経済人には岩崎弥太郎もいる。
岩崎は三菱財閥を築き上げ、保有資産は渋沢をしのいだ。
しかし、岩崎は、政府からの資産払い下げや軍事輸送で独占的に利益を上げたことでもうかがえるように、「独占資本主義」を志向する経済人であった。
一方の、公益追求型の渋沢資本主義の原点は、フランス留学にある。
当時のフランスは、社会主義政策の中で殖産興業を進めており、資本家だけではなく、労働者を含めて成長の果実を取り込もうというリベラルな風潮があった。
渋沢が唱えた「合本主義」はフランス留学の影響であろう。
合本主義とは、公益をかなえるために、無名の庶民を含めた幅広い層の人々から資金を集めて、人材を募り事業を運営する理念で、今日の株式会社制度の原型である。
渋沢は、大蔵省では為替や銀行制度、証券取引所を作り上げ、民間に転じてからは繊維や紙などの基幹産業を作り上げた。この功績の多くは、海外の制度や技術を導入したものだ。
以上のように、権威主義でなく、国際化の波を受け入れるのが前期渋沢資本主義の特徴だ。
その渋沢の愛弟子だったのが、東京電燈会長や日本商工会議所会頭を務めた郷誠之助である。財界人として地位を固め、人気の高かった郷は、渋沢を信奉する若手財界人を集めた「番町会」を主宰した。いわば新進気鋭の財界人が集まるサロンである。
[匿名さん]
ところが、番町会のメンバーは、1930年代、疑獄疑惑として持ち上がった「帝人事件」の贈賄側として罪を問われる。
疑惑の詳細は説明を省くが、結局、「犯罪の事実なし」として、日本の刑事裁判の歴史に残る冤罪(えんざい)事件に終わった。
しかし、冤罪とはいえ番町会の勢いがそがれた上、疑惑と時を同じくして、大政翼賛体制、独占資本主義が台頭し、前期渋沢資本主義は終わりを告げた。
後期渋沢資本主義は、戦後復興とともにスタートした。その一翼を担ったのは、番町会のメンバーだった小林中(あたる、51年に日本開発銀行初代総裁)、河合良成(厚生相、小松製作所社長を歴任)らだった。
産業界における後期渋沢資本主義の特徴は、内務省に代わって官庁のトップに立った大蔵省と日本興業銀行が一体となって資金配分を取り仕切り、興銀が重厚長大産業に重点的に投融資したことだ。
興銀といえば、61~70年に頭取・会長を務めた中山素平は、興銀から開銀理事への出向経験があったことから、小林との信頼関係は厚かった。
いわば、前期渋沢資本主義の承継者であった中山は、日産自動車・プリンス自動車合併(66年)や、八幡製鉄・富士製鉄合併による新日本製鉄誕生(70年)の根回しに奔走し、金融界で後期渋沢資本主義時代を代表する経済人だ。
[匿名さん]