>>52
なぜにかかる非論理が論理としてコンセンサスを得るにいたるのであろうか。それは、上の文脈を逆にたどればよいのだろ
う。つまり、まず「ある一群の人間を人間以下の生物に転落させる必要性」が「社会的要請」として存在し、「必要性」を
「必然性」にすりかえるために「生物学的過程」が要請され、かかる要請を基盤にその要請を証明するべく、ある一群の人間
にスティグマが「発見」されるという手順である。[…]
それゆえに、われわれが報告で明らかにしたかったのは精神障害者の心的力動などではなく、四人の精神障害者の生き様を
書くことによって、われわれも含めて彼らを精神障害者をみ、病院にとじこめていくものの眼であり、都合である。」(小澤
[1975:163])
なぜにかかる非論理が論理としてコンセンサスを得るにいたるのであろうか。それは、上の文脈を逆にたどればよいのだろ
う。つまり、まず「ある一群の人間を人間以下の生物に転落させる必要性」が「社会的要請」として存在し、「必要性」を
「必然性」にすりかえるために「生物学的過程」が要請され、かかる要請を基盤にその要請を証明するべく、ある一群の人間
にスティグマが「発見」されるという手順である。[…]
それゆえに、われわれが報告で明らかにしたかったのは精神障害者の心的力動などではなく、四人の精神障害者の生き様を
書くことによって、われわれも含めて彼らを精神障害者をみ、病院にとじこめていくものの眼であり、都合である。」(小澤
[1975:163])