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山代温泉大騒擾事件とは
明治41年の冬に総湯の温度がひどく下がり、入浴が困難となった。山代の区民の多数は農民で、当時自宅に風呂が無いから、農作業後の入浴が出来ず、健康を害する人も出た。
明治43年1月永井町長は任期を満了することになっていたが、その前月に再選された。そこで、農民たちは、当時の「くらや」(穂積)の経営する源泉地にある旅館が浴槽を増やしたため、湯の量が減ったと考え、旅館側に申し出をするが、聞き入れられなかった。
村民達は、旅館経営者の一人である永井寿(あらや)が村長である限り総湯の温度は快復しないと考えた。280人あまりの農民は、再選されたばかりの村長を再選不許可とする嘆願書を知事に提出したが、明治43年1月18日、県は村長許可の指令を出したため、同日夜、農民の主な者数名が集まり、もはや非常手段に訴えるより方法が無いから、皆で税金滞納をするとともに、共浴場への埋設樋管を掘り、清掃する名目であら屋の前へ大勢が行き、大規模な示威をしようと決定した。
そして翌19日深夜、各組長は組子を集めてこの旨を報告し、同夜12時に決行した。200名余りの農民は手に鍬、つるはし、提灯などを持って永井宅前に集まり、ときの声をあげて道路を堀り、堀った土や石を永井宅に投げつけ、また、表戸、柵、玄関の格子を壊し、村長を引きずり出せという騒ぎとなった。
これらの行為は騒擾罪とされ、被告人は全部で23人、裁判の結果、4人は無罪となったが、有罪者もすべて執行猶予が附された。逮捕された農民が金沢の未決監から戻ったときには、区民たちはこれを動橋駅まで出迎え、帰宅した家では高張り提灯🌟をかかげ、義人を迎える歓迎振りであった。
この事件後永井氏は村長再選の座を守る事は出来ず、間もなく武田武雄が就任(明治43年3月)した。