武生にいたのはスルーされる。
ナレで約1年越前に過ごして帰ってきた、で終わり。
[匿名さん]
こんな田舎は嫌だ早く帰りたいという書物が実際にあると聞いたが、、、それでも町おこし???
[匿名さん]
紫式部じゃ、ネタ薄だから、紫式部がナレーションの源氏物語、国府編とかじゃあかんかな?
[匿名さん]
平安当時でも都会と田舎で大きな隔たりがあったのかね
[匿名さん]
まぁネットもスマホもコンビニも揃ってたって、田舎は田舎だからなぁw
[匿名さん]
紫式部「(チッ!)んーでこんなクソ田舎に来なあかんねん💢イオンすらねーじゃん(笑)だりぃわ💢」
[匿名さん]
「うち、こんなクソ田舎嫌や〜!」って台詞があったら受信料払います
[匿名さん]
かなりネガティブ思考で皮肉や愚痴三昧だったらしいね。越前ではぐちぐち文句ばかりでキレやすかった女だと。
[匿名さん]
中臣宅守もお忘れなく
天平12年(740年)頃に蔵部の女孺であった狭野弟上娘子を娶ったときに越前国に流罪となる。罪に問われた事情は明らかでなく、政変がらみとするものと禁を犯して娘子と結ばれたものとの両説がある。同年6月に大赦が行われるが、罪は赦されなかった。天平13年(741年)9月に再度行われた大赦により帰京したか。
越前国配流時に狭野茅上娘子と交わした和歌を中心に40首が『万葉集』に採録されている。
[匿名さん]
あをによし、奈良(なら)の大道(おほち)は、行(ゆ)きよけど、この山道(やまみち)は行(ゆ)き悪(あ)しかりけり
意味: 奈良(なら)の大路(おおじ)は楽に歩けるけれど、この山道(やまみち)は通ってゆくのが大変でした。
天平12年(740)、越前国(えちぜんのくに: 今の福井県)に流罪(るざい)になった中臣宅守(なかとみのやかもり)が、狭野弟上娘子(さののおとがみをとめ)のことを想って詠んだ歌。
[匿名さん]
越前国府が宋人の溜まり場だったとは。今は武生がブラジル人の溜まり場だな。
[匿名さん]
大雪とあまりのド田舎ぶりにビックリして慌てて逃げ帰りました
[匿名さん]