なお、試合は1-2で敗れている。奥寺康彦、永井良和らと共に、いわゆるメキシコ五輪銅の旧世代メンバーとの入れ替わりを象徴する選手の1人となった。「個人技で劣る部分を走ることでカバーする」という当時の日本サッカーのコンセプトを覆し個人技で見せ、1984年のロサンゼルス五輪予選まで中盤を牽引した。金田・木村のコンビは1980年代日本サッカーの希望、二人のコンビで一時代を築いた。ロス五輪予選は組み合わせにも恵まれ、本戦出場に期待が大きかったが、初戦で格下とみられたタイに2-5で敗れるとそのまま全敗。4月のタイの暑さが想像以上で、コンディショニングの失敗や森孝慈監督批判他、多くの批判が出たが、金田は「攻撃の形はワシが作ってたから、ワシがダメだったから負けた」と、直後に26歳の若さで代表を引退した。ワールドカップ出場にあと一歩のところまで辿りついた1985年ワールドカップメキシコ大会最終予選に金田がいればと、当時のサッカーファンは誰もが思っていた。日本代表154試合出場、国際Aマッチ58試合は歴代28位、6得点40位を記録している。
1985年夏に恥骨を疲労骨折、次いで内転筋を痛め精彩を欠いたが1980年代後半にキレが戻り1988年〜1989年の日産2年連続三冠(天皇杯、日本サッカーリーグ、JSLカップ)など、日産の国内タイトル7冠獲得に貢献した。
1985年夏に恥骨を疲労骨折、次いで内転筋を痛め精彩を欠いたが1980年代後半にキレが戻り1988年〜1989年の日産2年連続三冠(天皇杯、日本サッカーリーグ、JSLカップ)など、日産の国内タイトル7冠獲得に貢献した。