プロレスラーやガチ派は慈善活動や寄付は良くする
ボボ・ブラジル
デストロイヤー
ブッチャー
シン
ガチ派
文句ばかり言ってケチで悪い人がヤオタハゲ
[匿名さん]
もう十分に稼いでいるのにね。インド人は本当に元気だよな。死闘を繰り広げた猪木は入院してリハビリ中♿️
[匿名さん]
まあ強制されるもんじゃ無いし したらしたで偽善者扱いされることもあるし
[匿名さん]
1967年6月にジョニー・バレンタインを破ってトロント地区のUSヘビー級王座を獲得すると、当時のトロント地区で完全にメインイベンターの地位を確立。
同年にはNWA世界王者ジン・キニスキーに1度、WWWF世界王者ブルーノ・サンマルチノに2度挑戦している。
[匿名さん]
「東日本大震災のニュース映像をテレビで見たときは、あまりのショックで全身に鳥肌が立ったよ。いまでも映像を思い出したら泣きそうだ。あんな映像は人生で一度も見たことがない。最初は『映画じゃないのか? 』というような感じでいたが、まぎれもなく実際に起こっていることだった……。
とにかく金縛りにあったような感じになって、涙が止まらなかった。この私、タイガー・ジェット・シンが赤子のように泣いていたんだからね。私は数えきれないほど日本に来ているから、仙台や福島にも友人がたくさんいて、あのニュース映像を見たあとすぐに日本に連絡したんだよ。しかし、まったく連絡が取れなくてね。後日、何人もの友人が亡くなったのを知ったんだ……。もう何日も眠れない夜が続いたよ」
[匿名さん]
シンも巌流島やったっけなぁ
全日行くと選手がダメになる 全日の試合観てると眠くなる
[匿名さん]
「子どもというのは本当に神様の子なんだよ。私自身、子どもがいるし、もう孫もいる。
その子たちがちょっとケガをしただけでも大騒ぎしてるのに、日本では何千人もの子どもたちが亡くなったわけだからね……。
だから、あらゆる団体にリクエストしたい。興行収益の1割でも2割でもいいから、なんとか被災者のために寄付してほしいと思う。」
今年も震災で被害を受けた子どもたちに2万カナダドル(約170万円)を寄付すると表明した。
[匿名さん]
シシは節約家でケチなイメージがあるが、実は金銭感覚はクレバーで、晩年金銭的に破綻するレスラーも多い中実業家として堅実に成功した。その一方必要とならば惜し気もなく使う人物だった。
[匿名さん]
カナダ人
インド パンジャム州出身は真っ赤な嘘
カナダに学校建てた元々大金持ちだったのを
全日本に全て抑えられている外国人に苦慮していた新日本が外人の悪役が必要となり来日させた
[匿名さん]
タイガー・ジェット・シンといえば、日本では1973年に新日本プロレスに初来日して以降、長年にわたり悪の限りを尽くしてきた悪役レスラー。
一方、地元トロントではさまざまな事業を展開する企業家であり、80年代から子供や医療機関に対する慈善活動を続けてきた慈善家としても知られている。
地元にはシンの名前を冠した学校まであるのだ。
[匿名さん]
新日は自分のところで外人レスラーを作り出すしか無かった
[匿名さん]
新日はシンを宿泊するホテルにカンヅメにして一歩も外に出さないようにしていた
少しでも怖いイメージが傷つくことを恐れたためである
[匿名さん]
いや 俺はシンを赤坂の飲み屋街で何度も見かけた。。
[匿名さん]
作り上げられたレスラー
ハンセンもウエスタンラリアットで首を折ったことにして売り出した
[匿名さん]
タイガー・ジェット・シンを新日本プロレスに売り込んだのは、当時インドと独自のネットワークを築いていた吉田なる貿易商とされる。香港でシンの試合を観戦し、新日本側に紹介した。猪木が無名外国人選手のプロフィールに目を通している時に、口にナイフを咥えているシンの写真に注目した。この時猪木は、「ナイフじゃなくどうせならサーベルでも咥えさせてみろ」と語ったという。
初来日で山本小鉄対スティーブリッカードの試合に乱入山本をめったうちにしてデビュー
さんが一度日本を離れている間に
新日本は猪木案を採用 サーベルを作らせた
再来日したシンは悪役で売り出すことを考えていたためこの新日本が用意したサーベルを大変喜んだと証言されている
[匿名さん]
慈善家という、シンのそういった“素顔”は、日本では長年伏せられてきた。
シンのヒールとしてのプロ意識は徹底しており、長年、ファンに対して写真やサインはおろか、笑顔を見せることすら一切なく、目が合った人間は誰でも襲うという“狂人”ぶりを完璧に演じていた。
そのため70~80年代当時は、「他のヒールは仕事としてやっているけど、シンだけは本物ではないか?」という声が上がることも少なくなかったのだ。
[匿名さん]
かつての猪木の右腕であり、新日本プロレスの取締役営業本部長だった“過激な仕掛け人”こと新間寿は、シンをこう語る。
「猪木とシンの試合のときは、我々、会社の背広組もマスコミも震え上がるくらいだった。
シンなんて、お客の前では記者だろうが誰だろうが、本気で襲ってくるからね。
シンという男は、普段は紳士なんだけど、あのコスチュームを身につけた瞬間、身も心も“狂える虎”になれた男だったね」
[匿名さん]
新日本プロレス時代のサーベルは新日本側で準備していたものであり、全日本プロレス熊谷大会に乱入した際、凶器はサーベルではなく、モップの柄を使用していた。
そして全日本参戦初日に自費でサーベルを購入している。
[匿名さん]
1979年8月26日、東京スポーツ社主催「プロレス夢のオールスター戦」で、ファン投票で1位に選ばれたメインカードが、シン・ブッチャー組対猪木・馬場組であった。
選ばれた当初は「俺がブッチャーと組むくらいならむしろ猪木と組んで、ブッチャー・馬場組と対戦してやる」と、ブッチャーとのコンビを露骨に拒否するほどの犬猿の仲とされていた。
[匿名さん]
悪役としてスーパースターになったのは すべて猪木さんのおかげです
しかし 年取って体が言う事を聞かなくなってきたので
全日に参加しました 全日は 台本通りにやっとけば
馬場さんが 良い金をくれたので 新日より楽して稼げました
特に 鶴田と馬場との試合は 客を騙して リングの上で遊んでいました
騙された お客さん達ごめんくさい ちがった 御免なさい
[匿名さん]
日本のマット界での仕事で心残りなのは、弟的存在、トップヒール鶴見五郎の手助けが出来なかった事だろうな。
流血試合からパワーファイターの時代へ、ウマノスケサンに御世話になったように、参謀として鶴見五郎のサポート、時代の流れとは言え。
平成維震軍vs 鶴見 シン 馬之助。見たかった。
[匿名さん]
ハル薗田の事故の時、インタビューに答えるシンを見て、紳士然としたシンに驚いた
同時にプロレスの仕組みを悟ってしまった
[匿名さん]