【北陸路の激突 1】
北陸路はすでに小西音松率いる小西組が進出していた。
北陸一円を支配する的屋中沢組の中沢多喜夫が引退することに
中沢組は跡目相続で内紛が起こる。
昭和37年9月、不平分子の飯村昭二を傘下に入れ
小西組一家北陸総連合 支部・支部長とした。
石川県下のある町にパチンコ屋、飲食店、自転車預かり所などを縄張りとする顔役がいた。
突然、彼に服従していた町のグレン隊が反乱をおこした
鎮圧に大童となったころ、一群の男たちに誘拐される
そして北陸から姿は消えた・・。
一群の男たちはグレン隊のリーダー格を土地の顔役に任命し柳川組の傘下においた。
柳川組戦闘団はこのように町の一つ一つを陥しながら北上を続けた。
昭和37年12月、福井市に到着し倉島官司率いる倉島組を
傘下におさめ柳川組福井支部の看板があがった。
中沢組の飯村昭二が小西組に吸収されると
谷川康太郎は同じく中沢組分家・福島三郎を舎弟にし傘下に組み込む。
福島三郎は石川県下の政・財界に顔のきく男で、全県の的屋、博徒
グレン隊を柳川組北陸支部の看板のもとに統一した。
福島三郎は谷川康太郎に対して絶対的な服従と強い支持を堅持していた。
[匿名さん]
【谷川語録】
猪野健治氏による数回のインタビューのほか『サンデー毎日』
71年2月21日号『アサヒ芸能』66年12月10日号から抜粋
・衣食住が満たされぬのは、それ自体が犯罪である。
・運が悪いだけのものを犯罪という。
・やくざとは哀愁の結合体だ。そこにあるのは、権力、圧力、貧困におびえる姿だけ。
・何が善で何が悪だといえるのは、まだ余裕のある人間だ。
・ドストエフスキーの『罪と罰』は所詮インテリ用。精神的遊戯だ。
ラスコリニコフは、金貸しを殺しても、学問をきわめ
社会をよくするためにつくせば罪は解消すると考える。
そんなことを書いてもらっても、飢えた人間は満たされぬ。
・飢えなくてすむように教えること。これが教育だ。
わたし自身、自分の行動力を社会改革に向けるよう刺激される
教育を受けていたら、別な生き方をしたと思う。
・「努力するものは必ず報われる」というのは、ひどいウソだ。
・反発することがすべてだった。
・やくざがなくならないのは、政治の貧困の結果だ−などといわれても
どうしようもない。
そうゆうことをバカの一つ覚えみたいにくりかえしている人間は
えてしてそういうことをしゃべったり書いたりすることを商売としている人間だ。
・“組”は前科とか国籍とか出身とかの経歴を一切問わないただ一つの集団だ。
だから、社会の底辺で差別に苦しんできた人間にとって
“ 組”は憩いの揺籃となり、逃避の場 となり、連帯の場となる。
[匿名さん]
【谷川語録】
猪野健治氏による数回のインタビューのほか『サンデー毎日』
71年2月21日号『アサヒ芸能』66年12月10日号から抜粋
・やくざに朝鮮人が多いのは、社会に出ても、あらゆる門戸が閉ざされているからだ。
残されているのはみじめな雑業だけ。差別と極貧。それにじっと耐えるものもいる。
しかし、ガマンできないものもいる。よいも悪いもない。
柳川組はそういうものが寄っかかる“支え”としてあつた。
・社会からはじき出され、何かをして生きねばならない無数の人間がいる。
やがてそのなかからリーダーが生まれて、グループの核ができ
“組”が形成される。“組”は、はじめからあるものではなく
つくろうとしてできるものでもない。
・わたしにはカネも地位も名誉もなかった。
ソーニャ(ラスコリニコフの恋人)のような女性もいなかった。
信仰する余裕もなかった。しかし、そういう状態のなかで
「なにもないこと」の強さを身をもって知った。
[匿名さん]
秋良連合会会長の父ちゃんがおるやんけ
西成鬼頭組殴り込み8人の一人
[匿名さん]
石川県
舎弟 福島三郎(福島組組長)
北陸支部長 松元昭治(松元組組長)
幹部 紺谷久雄(紺谷組組長)
幹部 曽山真行(曽山組組長)
幹部 北野正男(北野組組長)
幹部 金堂 正(金堂組組長)
[匿名さん]
石川県
舎弟 福島三郎(福島組組長)
北陸支部長 松元昭治(松元組組長)
幹部 紺谷久雄(紺谷組組長)
幹部 金堂 正(金堂組組長)
幹部 滝本 清(滝本組組長)
幹部 曽山真行(曽山組組長)
幹部 北野正男(北野組組長)
[匿名さん]
【北陸路の激突 1】
北陸路はすでに小西音松率いる小西組が進出していた。
北陸一円を支配する的屋中沢組の中沢多喜夫が引退することに
中沢組は跡目相続で内紛が起こる。
昭和37年9月、不平分子の飯村昭二を傘下に入れ
小西組一家北陸総連合 支部・支部長とした。
石川県下のある町にパチンコ屋、飲食店、自転車預かり所などを縄張りとする顔役がいた。
突然、彼に服従していた町のグレン隊が反乱をおこした
鎮圧に大童となったころ、一群の男たちに誘拐される
そして北陸から姿は消えた・・。
一群の男たちはグレン隊のリーダー格を土地の顔役に任命し柳川組の傘下においた。
柳川組戦闘団はこのように町の一つ一つを陥しながら北上を続けた。
昭和37年12月、福井市に到着し倉島官司率いる倉島組を
傘下におさめ柳川組福井支部の看板があがった。
中沢組の飯村昭二が小西組に吸収されると
谷川康太郎は同じく中沢組分家・福島三郎を舎弟にし傘下に組み込む。
福島三郎は石川県下の政・財界に顔のきく男で、全県の的屋、博徒
グレン隊を柳川組北陸支部の看板のもとに統一した。
福島三郎は谷川康太郎に対して絶対的な服従と強い支持を堅持していた。
[匿名さん]
1、昭和30年代初頭の北陸
・昭和30年代初頭の北陸は、本多会・松葉会・中島会・錦政会・極東組などの広域暴力団と、地元組織で300人の構成員を持つ老舗テキヤ団体の中沢組が存在していた。
2、中沢組の分裂
・昭和36年、中沢組の三代目が引退をしたのを機に、その跡目継承をめぐって内紛が起こった。飯村昭二は山口組系小西一家と縁組し、福島三郎は松葉会に加入し、中村直秀は中島会幹部の舎弟となり、三派に分かれた。
[匿名さん]
3、松葉会vs中島会と山口組系柳川組・菅谷組の北陸進出
(1)、松葉会vs中島会
・石川県下の山中・山代・片山津などの温泉街のヌード・スタジオ利権をめぐって、松葉会と中島会が抗争を起こす。
(2)、手打ち破り
・この抗争の仲裁は山口組系柳川組が行い、柳川組の若頭谷川康太郎が手打ち式に赴いた。
しかし、手打ち式が終えたすぐあとに、中島会が松葉会を襲撃した。これは明らかな手打ち破りであった。
(3)、中村直秀の金沢追放
・手打ち破りに激怒した谷川は、中島組幹部と中村直秀を呼び出し、中村直秀を引退させ金沢から追放してしまった。
さらに、中村直秀の縄張りのほとんどは、自らの舎弟となった福島三郎に譲った。
福島三郎は、松葉会から柳川組に移り、北陸支部長に就任した。
福島三郎は柳川組の勢力を北陸で拡大させ、支部直轄41名、石川県下12団体147名の構成員を抱えるまでに成長させた。
[匿名さん]
4、松葉会vs本多会
・昭和38年、山中温泉のキャバレーで松葉会と本多会が乱闘をし、本多会組員が松葉会組員を射殺した。
松葉会は220人、本多会は200人が石川に集結したが、松葉会の前身である関根組の関根賢と児玉誉士夫が間に入って手打ちとなった。
しかし、この後も松葉会組員が本多会組員を殺す事件が起きている。
5、山口組系柳川組vs本多会系米山組
(1)、石川での抗争
・山口組系柳川組の谷川康太郎が、本多会北陸支部長・米山政宣率いる米山組の副会長・紺谷久雄を説得し、紺谷と曾山修を柳川組に加入させた。
これに激怒した米山組は、紺谷の事務所を襲撃して紺谷に重症を負わせ、さらには曾山の事務所を襲撃した所で柳川組員と乱闘になった。
この乱闘で、米山組員1人が死亡、1人が重傷を負った。
[匿名さん]
(2)、富山での抗争
①、源清田一家vs米山組
・富山の歓楽街の路上で、地元組織源清田一家の4人が、米山組員に対して行儀が悪いと暴行をした。
これに対して、米山組は源清田一家総長宅に押しかけ、総長から代紋と現金を脅し取った。
②、柳川組vs米山組
・源清田一家は柳川組富山県支部長・李容大に応援を求めた。
李は山村組員から代紋を取り戻した後組員達を袋たたきにして負傷を負わせた。
(3)、影響
・この米山組との抗争を通して、北陸の各組は柳川組に対抗する気力を失っていった。
[匿名さん]
昔、大阪の枚方で柳川組に殺された組員を
死体の状態で一晩家で預かった事がある。
今やったら病院に救急搬送されるけどな
[匿名さん]
福島組
柳川組解散後 直参 一会
四代目体制 一会より直参昇格
五代目体制 解散後 昭成会
[匿名さん]
1969年4月1日
大阪府警察は「レストラン・サンマテオ」の経営内容を理由に、柳川次郎を名古屋刑務所から大阪の田辺警察署に移送。
田辺警察署は、柳川次郎の口から柳川組解散を引き出した。
同年4月8日
柳川次郎は、三代目山口組二代目柳川組・谷川康太郎組長を大阪刑務所で説得し(谷川康太郎は第一次頂上作戦で、大阪刑務所に収監されていた)、解散の同意を取り付けた。
谷川康太郎が署名した「解散声明書」及び、柳川次郎が署名した「解散同意書」の日付は、昭和44年4月9日。
同年7月
田岡一雄は、野沢組(後の一会)・野沢義太郎組長、金田組・金田三俊組長、石田組(後の章友会)・石田章六組長、藤原組・藤原定太郎組長を山口組直参とした。
同年8月1日
田岡一雄は、本家に無断で柳川組を解散させたと云う理由で
柳川次郎と谷川康太郎を絶縁とした。
[匿名さん]
柳川四天王
野澤儀太郎(初代一会会長)
藤原定太郎(藤原会会長)
石田章六(章友会会長)
金田三俊(金田組組長)
[匿名さん]
最盛期の柳川組は約2800人の構成員を抱え、山口組の二次団体でありながら単独で広域暴力団に指定された。
警察庁の標的にされ、三代目山口組時代に解散した。
[匿名さん]
田岡一雄の裁定
谷川の裁定に不満を持った中村直秀は、広島の岡組組長・岡敏夫に相談をした。
岡は、山口組舎弟安原会会長・安原政雄に相談をし、安原は山口組系菅谷組組長・菅谷政雄に一任した。
菅谷は、中村直秀を舎弟とした上で、柳川組を説得し、山口組組長・田岡一雄の裁定で解決することとなった。
田岡は、中村直秀を北陸に復帰させ、その縄張りも元に戻す、と裁定をした
[匿名さん]
菅谷組 舎弟 中村直秀
菅谷組解散
(2007年85歳で死去)
ダイヤ商事
金沢市や白山市、野々市町などで中村
さんが景品交換業務をほぼ独占してきた。
金沢市内に景品交換業の新会社
「ケンゼン」が設立されたのは
2000年1月。
同社設立に際しては、かねて業界の
健全化を目指していた県警が後押ししたとされる。
「高齢で健康面に不安がある中村さんの業界内での影響力が次第に薄れてきた」とされる中で、中村さんと長年取引していた福井県内の景品流通業者が中村さんとの取引を全面停止したことから、各店が景品交換業者を相次いで「ケンゼン」に変更。
中村さんのダイヤ商事は一部の取引先を除き、2006年11月「一時休業」を宣言していた。
[匿名さん]
柳川組北陸支部長 福島三郎
小西組一家北陸総連合
支部・支部長 飯村昭二
菅谷組 舎弟 中村直秀
[匿名さん]
しかし柳川組は🌿かなり古いですね。😰
千日前 宅見組
[匿名さん]
1967年
柳川組相談役・神田八郎は
「神田組を解散しないならば韓国へ強制送還する」と迫られて神田組を解散した。
[匿名さん]
神田八郎、通り名はカンパチさん。明友会出身。
布施~生野が地盤。
[匿名さん]