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亭主関白 谷九⑱
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#5012021/07/19 22:29
影響​

『太平記』は中世から物語僧の「太平記読み」によって語られ、初等学問におけるテキストの役割や江戸時代には講談で語られる物語の1つとなる。室町時代には『太平記』に影響され、多くの軍記物語が書かれる。赤穂藩浅野家家臣が吉良義央を討ち果たす赤穂事件が起ると、竹田出雲らにより太平記の「塩冶判官の物語」に仮託されて「仮名手本忠臣蔵」として書かれるなど、説話、浄瑠璃など、日本の近世文学にも大きな影響を与えた[5]。

戦国武将にとっては太平記を兵法書の側面から捉え、さまざまな論評を加えた書も生まれた。その集大成が『太平記評判秘伝理尽鈔』となった。江戸期に至るまでの武士にとって不可欠ともいえる兵法書となった。

16世紀、日本でキリスト教のカトリックの布教を行ったイエズス会の宣教師たちは、『平家物語』と共に『太平記』を、日本の歴史や文化、思想、日本語などを学ぶための資料・教材として注目した。そのため、イエズス会が活版印刷で刊行したキリシタン版にも、『太平記』は強い影響を与えた。

例えば、日本の歴史や文化、思想、日本語などの学習ための教材として『太平記抜書』が刊行された。しかし、『太平記抜書』では、神仏に関する記述が、キリスト教の唯一神(デウス)にそぐわないとされ、「神仏」は、当時の日本におけるデウスの同義語であった「天道」に置き換えられている。また、日本語の語彙をポルトガル語で説明した辞書である『日葡辞書』でも、語彙の説明の為の例文の多くが『太平記』から引用されている。

南北朝時代は古代史と並び皇室のルーツに関わる時代で、皇国史観のもと逆臣・尊氏や忠臣・正成などのイメージが固定化された「太平記」は、小説や映画・TVドラマなどの題材として作品化されることは極めて稀であった。その風潮に対して、吉川英治は戦後、『私本太平記』において足利尊氏をそれまでのイメージと違う新たな解釈を加えて南北朝時代を小説化した。平成3年(1991年)にはこの『私本太平記』を原作に、NHK大河ドラマ『太平記』が放送された。

[匿名さん]

#5022021/07/19 22:30
資料的価値​

同時代を生きた今川貞世(了俊)は応永9年(1402年)に著わした『難太平記』において内容の誤りを指摘している。ただし、それは、今川が室町幕府の重鎮であったことと関係するのかもしれない。近世では、徳川光圀は『大日本史』において資料としているが、明治の東京大学教授・久米邦武は資料的価値を否定している。たとえば、元弘2年(1332年)楠木正成の下赤坂城の奪還と再挙兵は、『太平記』では4月3日とされているが、一次史料である『楠木合戦注文』では12月中とされているなど[4]、有名なエピソードについても大幅な錯誤があることに留意する必要がある。また、「太平記」にしか記載がないとされている南朝方の武将・児島高徳の実在性を巡って、これを否定する重野安繹と、より慎重な資料批判を求める川田剛(甕江)との間で論争が起こった(重野=進歩的、川田=保守的という思想的対立に理由を求める見方には誤りがある)。近年の批判としては、足利氏一門の研究をしている谷口雄太は、新田氏とその一族が足利氏の一門・庶流であったのは同時代史料から明白であり、新田氏が足利氏から独立した一門であるとしたのは軍記物である『太平記』のみであったにも関わらず、足利と新田を同格と見做す史料的には根拠のない『太平記』史観が広まり、新田氏の庶流と称した徳川氏の天下が終わった明治時代以降にアカデミズムを含めて却ってその傾向が強くなったと指摘している[6]。今日では同時代の日記など他の一級資料と内容を比較することで、歴史的資料として研究されている。

[匿名さん]

#5032021/07/19 22:30
評価​

『平家物語』と比較すると、一貫性が欠如している、完成度が未熟、などの批判がある[7]。

宝井其角は「平家なり太平記には月を見ず」と評している。『月』は豊かな情緒、風雅の象徴であり、『平家物語』にはあるそれらが『太平記』にはない、と、其角は両者を比較している。他方、平家物語とは異なる文学性に満ちた、軍記文学の新境地を開いた作品という評価もある

[匿名さん]

#5042021/07/19 22:31
資料​

同時代の原典資料には、南朝の正統性を示すために記した北畠親房『神皇正統記』、足利家の事績を書いた『梅松論』や、『源威集』(平凡社東洋文庫)がある。

以下の諸書は『太平記』の名を冠しているものの、古典『太平記』とは成立経緯も内容も直接の関係はない。
『前太平記』上下 平安中期から後期にかけての事変や合戦を記す。天和元年(1681年)頃の成立。<「叢書江戸文庫4, 5」、国書刊行会>
『後太平記』 太平記以後の南北朝時代から室町時代、戦国時代までを書く軍記物語。
『西国太平記』
『続太平記』
『前々太平記』 前太平記の前史として著された軍書で、聖武天皇の即位(724年)から、醍醐天皇の治世までを146条にて著述されている。全二十一巻 (平住専安 著、建春山人、橘墩)<「叢書江戸文庫3」、国書刊行会>

[匿名さん]

#5052021/07/19 22:33
注釈本​

以下は戦後昭和から平成期に刊行された書目(各・全巻に校註)

他に抜粋版で校註・訳を行った書目は『鑑賞日本古典文学21』(角川書店 1976年)、『鑑賞日本の古典13』(尚学図書 1980年)など数種ある。本文が膨大なため、複数の系統の異なる本文を厳密に比較校合した、いわゆる「校本」と呼べるものは、現在まで未公刊である。
後藤丹治・釜田喜三郎・岡見正雄校注 『太平記』全3巻(岩波書店〈日本古典文学大系〉。新装版「史文学シリーズ」)。第一・二分冊は後藤・釜田、第三分冊は後藤・岡見の校註。
山下宏明校注 『太平記』全5巻(新潮社:新潮日本古典集成、新装版2016年)

以上の「古典大系」本、「古典集成」本はいずれも底本は慶長8年(1603年)刊の古活字本。この本文が寛永以降の製版本=流布本本文の直接の原型になったとされる。ただし、「古典大系」版の「(1)解説」によれば、古写本と慶長8年古活字本の間に、慶長7年刊と推測される無刊記古活字本があり、これは流布本の本文に一部古態の本文を含んだ特異なものであるとされるが、現在まで詳細は未紹介。
長谷川端校注・訳 『太平記』全4巻 (小学館:新編 日本古典文学全集54-57)

上記2者とは違い、底本は増補系とされる天正本(彰考館蔵)であるが、頭注ほかで流布本系本文との校異を記す。第二分冊以降の巻頭「凡例」によれば、他に長坂成行・小秋元段が校註者として参加している。校註の施された全巻にわたる現代語訳は現在これのみである。各分冊の「解説」にはほぼ20世紀末までの『太平記』研究史の要約と課題がまとめられている。
なお「古典集成」版、「新編古典文学全集」版は、各分冊の末に詳細な年表を付し『太平記』本文記事と史実との比較確認に便利である。兵藤裕己校註 『太平記』岩波文庫(全6巻)。2014年4月から2016年10月にかけ刊行。 文庫判は他に、岡見正雄の校註による角川文庫(二分冊・巻14まで、現在は絶版)が刊行されたが校註者死去のため未完となった。最も詳細かつ徹底した注釈を施し、特に補注の分量は本文をはるかに上回る膨大なものだった。

[匿名さん]

#5062021/07/19 22:33
現代語訳」​
安井久善、長谷川端訳『新訳 太平記を読む 太平記要覧付』全5巻 (おうふう) 安井久善 『太平記要覧』 おうふう、1997年。ISBN 978-4273029395。

上原作和、小番達監修・訳『完訳太平記』全4巻 (勉誠出版 現代語で読む歴史文学)
山崎正和訳『太平記』(河出書房新社 全2巻。河出文庫 全4巻)

[匿名さん]

#5072021/07/19 22:34
注釈書​
『難太平記』
『参考太平記』 吉川弘文館(2巻)

今井弘済・内藤貞顕編。1689年成立、1691年刊。水戸・彰考館にて、『大日本史』編纂の参考資料として、『太平記』の叙述をほかの史書、史料と校合し、史実を考証したもの。彰考館が収集した九種類の『太平記』古写本の本文を流布本と校合し、事実関係について検討を加えてある。史料編纂の目的のため人名、地名など固有名詞と年日次の相違には厳密であるが、詞章そのものの校合には時に緻密さを欠く個所もある。また、『太平記』に頻出する、漢籍を出典とする故事などについては全く無視されており、『参考太平記』には引かれていない。以上の編纂方針及び参考資料名を詳細に掲げた「凡例」を巻頭に持ち、そこでは文献学的な『太平記』諸本論が提示されている。質量ともにそれ以前のあらゆる注釈・考証を凌ぎ、明治になるまでは『太平記』の注釈的研究としては最も優れたものであった。なお彰考館では同様の目的でほかに『参考保元物語』『参考平治物語』『参考源平盛衰記』の都合四書が編纂されたが、幕末までに製版本で公刊されたのは『参考太平記』だけである。
『太平記鈔』
『太平記考証』
『太平記秘伝理尽鈔』 平凡社東洋文庫(全10巻予定、2002-2007年に4巻刊、2020年6月に第5巻)
『太平記評判私要理心無極抄』
『太平記綱目』
『太平記大全』

[匿名さん]

#5082021/07/19 22:35
太平記を描いた作品​
小説谷崎潤一郎 『顔世』 映画『悪党』(監督:新藤兼人、1965年)の原作

山岡荘八 『新太平記』 全作品集・講談社文庫 全5巻
吉川英治 『私本太平記』 全作品集・講談社文庫 全8巻 NHK大河ドラマ『太平記』(1991年)の原作

鷲尾雨工 『吉野朝太平記』 新版・誠文図書 全5巻
大佛次郎 『大楠公』 徳間文庫ほか
今東光 『太平記』 徳間文庫 全4巻
森村誠一 『太平記』全6巻 角川書店、のち角川文庫
杉本苑子 『風の群像 小説足利尊氏』 講談社文庫 全2巻
北方謙三 「破軍の星」「楠木正成」「道誉なり」「武王の門」 中央公論社ほか
火坂雅志 『太平記鬼伝 児島高徳』 小学館文庫ほか
高橋直樹 『異形武夫』 新潮社

[匿名さん]

#5092021/07/19 22:35
漫画さいとう・たかを 『太平記 マンガ日本の古典』 中公文庫 上中下ほか
河部真道 『バンデット -偽伝太平記-』 講談社
横山まさみち 『コミック太平記』講談社 全6巻

[匿名さん]

#5102021/07/19 22:36
>>488
織田は
殺してしまえホトトギスやぁ

[匿名さん]

#5112021/07/19 22:37
エッセイ永井路子 『太平記紀行』中公文庫ほか、『太平記 古典を読む』文春文庫ほか
陳舜臣 『山河太平記』ちくま文庫 2007年

[匿名さん]

#5122021/07/19 22:38
平記関連の史論​
永積安明 『古典を読む 太平記』 岩波書店 1984年、岩波同時代ライブラリー、1998年
大森北義編 『新潮古典文学アルバム 太平記』 新潮社、1990年
森茂暁 『太平記の群像 軍記物語の虚構と真実』 角川選書、1991年、「― 南北朝を駆け抜けた人々」角川ソフィア文庫、2013年
佐藤和彦 『「太平記」を読む 動乱の時代と人々』 学生社、1991年
若尾政希 『「太平記読み」の時代 近世政治思想史の構想』 平凡社選書、1999年、平凡社ライブラリー 2012年
松尾剛次 『太平記 鎮魂と救済の史書』 中公新書、2001年
新田一郎 『日本の歴史11 太平記の時代』 講談社 2001年、講談社学術文庫 2009年
兵藤裕己 『太平記〈よみ〉の可能性 歴史という物語』 講談社学術文庫、2005年
市沢哲編 『歴史と古典 太平記を読む』 吉川弘文館 2008年
武田友宏編 『太平記 日本の古典』 角川ソフィア文庫、2009年

[匿名さん]

#5132021/07/19 22:39
像作品​
NHK大河ドラマ・太平記

太平記を描いたゲーム​[編集]
『太平記―血戦楠木正成―』(発売:翔企画SSシリーズ、1990年)
旧ゲームジャーナル.63号 『特集:太平記 決戦楠木正成』(シミュレーションジャーナル、上記作品の再版) 絶版
『太平記』(PCエンジン CD-ROM2ソフト ジャンル:シミュレーションゲーム 発売:インテック、1991年)
『NHK大河ドラマ 太平記』(メガドライブ版、発売:セガ〈後のセガゲームス〉、1991年)
『NHK大河ドラマ 太平記』(PCエンジン版、発売:NHKエンタープライズ、1992年)

[匿名さん]

#5142021/07/19 22:39
脚注​

[脚注の使い方]

1.^ 龍谷大学図書館蔵『太平記』の研究
2.^ 大隅和雄『事典の語る日本の歴史』(そしえて)第5章『太平記』
3.^ 岩波文庫『太平記』解説・480頁
4.^ a b 近藤 1930.
5.^ 龍谷大学図書館蔵『太平記』の研究
6.^ 谷口雄太「終章 結論と展望」『中世足利氏の血統と権威』(吉川弘文社、2019年) ISBN 978-4-642-02958-2 P315-319.
7.^ 龍谷大学図書館蔵『太平記』の研究
8.^ 新潮古典文学アルバム14 太平記(新潮社) 92頁

[匿名さん]

#5152021/07/19 22:40
参考文献​
近藤瓶城編 「正慶乱離志」 『続史籍集覧』 1巻 近藤出版部、1930年。doi:10.11501/1920226。NDLJP:1920226。 (『楠木合戦注文』と『博多日記』を合わせたもの)
『太平記』 兵藤裕己校注、岩波文庫(全6巻)、2014-2016年

[匿名さん]

#5162021/07/19 22:41
関連項目​
ウィキメディア・コモンズには、太平記に関するカテゴリがあります。
ウィキクォートには、太平記に関する引用句があります。
ウィキソースには、太平記の原文があります。
日本の中世文学史
歴史書一覧
太平記の人物一覧
陰徳太平記
吉川元春
神皇正統記
梅松論
増鏡
新葉和歌集
吉野城

[匿名さん]

#5172021/07/19 22:42
外部リンク​

Lit.jpg ポータル 文学
太平記・国民文庫本・全巻
大取一馬, 日下幸男, 岩井宏子「龍谷大学図書館蔵『太平記』の研究」『龍谷大学仏教文化研究所紀要』第45巻、龍谷大学佛教文化研究所、2006年、 16-48頁、 ISSN 02895544、 NAID 110006607781。

[匿名さん]

#5182021/07/19 22:42
最終更新 2021年5月16日 (日) 18:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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[匿名さん]

#5192021/07/19 22:44
テスト

[匿名さん]

#5202021/07/19 22:44
楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。

元弘の乱(1331年 - 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。

南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生(けしょう)」(『太平記評判秘伝理尽鈔』、「軍神の化身」の意)、「日本開闢以来の名将」(江島為信『古今軍理問答』)と称された[4]。『太平記』では奇想天外な策と智謀に長けた「不敵」(無敵)の戦術家としての活躍が印象的に描かれるが、それは正成の軍才のごく限定された一面に過ぎず、史実では刀を振るえば電撃戦を得意とし六波羅探題を震撼させた猛将であり(『楠木合戦注文』『道平公記』)、築城・籠城技術を発展させ軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家であり(楠木流軍学の祖)、そして畿内にいながらにして日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した不世出の戦略家だった

[匿名さん]

#5212021/07/19 22:45
明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。

戦前までは、正成の忠臣としての側面のみが過剰に評価されたことで、対比として主君である後醍醐天皇やその建武政権の政策への低評価に繋がり、同時代への実証的研究を困難にさせた。しかし、2000年前後以降は、主君後醍醐の政策は前後の時代との連続性が見られることが指摘され、『太平記』で創作されたような暗君像は改められる方向にある。正成についても、何か一つの側面に縛られるような人間ではなく、武将・官僚・商人など、多面的な顔と才能を持つ人物であったことが明らかになってきている。

[匿名さん]

#5222021/07/19 22:46
頭おかしい人、ここまで続けれるんはすごいわ。見直した。ただ、継続と努力の方向性が狂ってるだけ

[匿名さん]

#5232021/07/19 22:46
河内の土豪説​

『太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとある[5][6]。

楠木氏は橘氏の後裔とされる[7]。正成の母は、橘遠保の末裔橘盛仲の娘。また、任官には源平藤橘の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を借りたとする説もある[7][8]。『太平記』巻第三には、楠木氏は橘諸兄の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は橘諸兄の墓といわれ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったともいわれる[7]。

また『観世系図』によれば、観阿弥の母は河内玉櫛荘の橘正遠(正成の父・楠木正遠)の娘すなわち正成の姉妹という記録があり、この玉櫛荘を正成の出身地とする推定もある[

[匿名さん]

#5242021/07/19 22:47
得宗被官・御家人説​

得能弘一が楠木氏駿河国出身説を提唱し(「楠木正成の出自に関する一考察」『神道学』128)、筧雅博、新井孝重も楠木氏の出自は駿河国とした[7][10][11][12]。筧雅博はその理由として、以下を挙げている。
1.楠木正成の地元である河内の金剛山西麓から観心寺荘一帯に「楠木」の字(あざ)はない。
2.鎌倉幕府が正応6年(1293年)7月に駿河国の荘園入江荘のうち長崎郷の一部と楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したと言う記録があり、楠木村に北条得宗被官の楠木氏が居住したと想定できる。
3.観心寺荘の地頭だった安達氏は、弘安8年(1285年)に入江荘と深い関係にある鎌倉幕府の有力御家人長崎氏に霜月騒動で滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。それゆえ出自が長崎氏と同郷の楠木氏が観心寺荘に移ったのではないかと思われる[注釈 3]。
4.楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に 「くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん」 という落首が記録されている[13]、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる

[匿名さん]

#5252021/07/19 22:48
悪党・非御家人説​[編集]

永仁3年(1295年)、東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門尉繁晶の一味として楠河内入道がおり、黒田俊雄はこの河内楠一族を正成の父と推定し、正成の出自は悪党的な荘官武士ではないかとした[16]。

林屋辰三郎は河内楠氏が散所民の長であったとした[17][18]。兵藤裕己はこの説を有力とし、正成の行為も悪党的行為であるとした[18]。

元徳3年(1331年)9月、六波羅探題は正成が後醍醐天皇から与えられた和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した[10]。このことから、正成が反関東の非御家人集団とみなす説がある[10][19]。佐藤和彦によれば、楠木氏は摂津から大和への交通の要衝玉櫛荘を支配し、近隣の和田(にぎた)氏、橋本氏らは同族で、楠木氏は摂津から伊賀にいたる土豪と商業や婚姻によって結びついていた[19]。また植村清二はこの「兵衛尉」官職名から幕府御家人とした[20]。

正成を非御家人とみなす説について新井孝重は、楠木氏が「鎌倉武士のイメージと大きく異なるゆえに、もともと鎌倉幕府と関係のない、畿内の非御家人だろうと考えられてきた」が、「畿内のように交通と商業が盛んなところであれば、どこに暮らす武士であっても、生活のしかたに御家人と非御家人の違いはないとみたほうがよい。だから楠木氏その存在のしかたを理由に非御家人でなければならない、ということにはならない」と述べている

[匿名さん]

#5262021/07/19 22:49
ほんまもうやめようや
自己中な正義感振り回してたけど
もうそれすらないやん

[匿名さん]

#5272021/07/19 22:51
挙兵以前​

元亨2年(1322年)、正成は得宗・北条高時の命により、摂津国の要衝淀川河口に居する渡辺党を討ち、紀伊国安田庄司湯浅氏を殺害し、南大和の越智氏を撃滅している[22]。

この一連の状況は『高野春秋編年輯録』に詳しい[22]。渡辺党を討った正成は高野山領を通過して紀伊安田へと向かい、安田荘を攻撃した[12]。安田庄司は湯浅一族であり、当時湯浅氏は高野山との相論に負けて紀伊国阿弖河荘(阿瀬川荘)を没収されており、この正成の攻撃は没収地の差押さえであったとされる[12]。その結果、正成は幕府から得宗領となった阿弖河荘を与えられた[14][22]。

その後、正成は越智氏の討伐へと向かった。越智氏は幕府に根成柿の所領を没収され、さらには北条高時が興じる闘犬の飼料供出まで求められ、憤った越智邦永が自領で六波羅の役人を殺害するに至った[22]。六波羅北方は討手として奉行人斎藤利行、小串範行らを二度にわたって派遣したが、そのゲリラ戦に手痛い敗北を喫していた[23]。そのため、六波羅は正成を起用し、彼は越智氏を討つことに成功した[12]。

新井孝重は、正成が渡辺党、湯浅氏、越智氏といった反逆武装民を討滅したことは非常に興味深いと述べている[23]。また、一連の軍事行動を否定する積極的な根拠は見いだせず、これらは本当にあったと考えている[22]。新井は、得宗被官であった正成が反逆武装民を討つのは当然の行為であると指摘し、この当時はまだ鎌倉幕府に忠実な「番犬」として畿内ににらみを利かせていたとしている[12]。

正成による渡辺党、湯浅氏、越智氏の討滅に六波羅は感嘆の声を上げ、そして怖れたといい、世間の人々にもその強烈な印象を与えた[12]。当時、畿内では悪党が幕府への反逆、合戦を繰り返し、その支配に揺らぎが生じていた[12]。幕府は安藤氏の乱で手を焼かされており、合戦の名人である正成が悪党のエネルギーを吸収し、いずれ反逆した場合への不安を抱いたとされる

[匿名さん]

#5282021/07/19 22:52
後醍醐天皇に与する​

その後、正成は得宗被官でありながら後醍醐天皇の倒幕計画に加担するようになった[14]。後醍醐天皇と正成を仲介したのは真言密教僧文観と醍醐寺報恩院道祐とされる[14][25]。ほか、伊賀兼光の関係も指摘されている。

元徳3年(1331年)2月、後醍醐天皇が道祐に与えた和泉若松荘を正成は所領として得た[14]。しかし、同年4月に倒幕計画が幕府側に知られると、8月に後醍醐天皇は笠置山に逃げ、その地で挙兵した(元弘の乱)。なお、正成はこのとき笠置山に参向している[26]。『増鏡』によると天皇側は前もって正成を頼りにしていたという[25]。正成は得宗被官から一転したため、鎌倉幕府からは「悪党楠兵衛尉」として追及を受けた[14]。同年9月、六波羅探題は正成の所領和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した

[匿名さん]

#5292021/07/19 22:53
赤坂城の戦い​

赤坂城の戦い(大楠公一代絵巻、楠妣庵観音寺蔵)
詳細は「赤坂城の戦い」を参照

9月、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇らは捕えられ、残る正成は赤坂城(下赤坂城)にて幕府軍と戦った(赤坂城の戦い)。幕府軍は当初、一日で決戦をつけることができると判断し、すぐさま攻撃を開始した[27]。

だが、正成は寡兵ながらもその攻撃によく耐えた。敵が城に接近すれば弓矢で応戦し、その上城外の塀で奇襲を仕掛けた[27]。敵が堀に手を掛ければ、城壁の四方に吊るされていた偽りの塀を切って落として敵兵を退け、上から大木や大石を投げ落とした[28][29]。これに対し、敵が楯を用意して攻めれば、塀に近づいた兵に熱湯をかけて追い払った[30]。正成のこれらの一連の攻撃により、幕府軍の城攻めは手詰まりに陥った[30]。

新井孝重は、一土豪に過ぎない正成に関東から上洛した軍勢が束になって攻撃を仕掛けたことに注目している[31]。単なる悪党の蜂起であるならばこれほどの大軍勢の投入は有り得ず、正成の尋常ならざる実力の証左であるとしている[31]。正成はかつて幕府に反逆した武士を次々に討伐した合戦の名人であり、鎌倉は明らかに正成を大いなる脅威と認識していたと考えられる[32]。

しかし、赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、 同年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち、幕府軍に城を奪わせた[14]。鎌倉幕府は赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に関東へ帰陣した。

赤坂城には阿弖河荘の旧主湯浅宗藤(湯浅孫六入道定仏)が幕府によって配置され、その旧領である正成の領地を与えられた[22]。一方、正成は赤坂城の落城後、しばらく行方をくらました。同年末、後醍醐方の護良親王から左衛門尉を与えられた

[匿名さん]

#5302021/07/19 22:55
赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧​

元弘2年/元徳4年(1332年)4月3日[33]、正成は湯浅宗藤の依る赤坂城を襲撃した。正成は赤坂城内に兵糧が少なく、湯浅宗藤が領地の阿弖河荘から人夫5、6百人に兵糧を持ち込ませ、夜陰に乗じて城に運び入れることを聞きつけ、その道中を襲って兵糧を奪い、自分の兵と人夫やその警護の兵とを入れ替え、空になった俵に武器を仕込んだ[33]。楠木軍は難なく城内に入ると、俵から武器を取り出して鬨の声を上げ、城外の軍勢もまた同時に城の木戸を破った[33]。これにより、湯浅宗藤は一戦も交えることなく降伏し、正成は赤坂城を奪い返した[14][33]。

楠木勢は湯浅氏を引き入れたことで勢いづき、瞬く間に和泉・河内を制圧し、一大勢力となった。そして、5月17日には摂津の住吉・天王寺に進攻し、渡部橋より南側に布陣した[33]。京には和泉・河内の両国から早馬が矢継ぎ早に送られ、正成が京に攻め込む可能性があると知らせたため、洛中は大騒ぎとなった[33]。このため、六波羅探題は隅田・高橋を南北六波羅の軍奉行とし、5月20日に京から5千の軍勢を派遣した[33]。

5月21日、六波羅軍は渡部橋まで進んだが、渡部橋の南側に楠木軍は300騎しかおらず、兵らは我先にと川を渡ろうとした[33]。だがこれは正成の策略で、前日に主力軍は住吉、天王寺付近に隠して 2,000余騎の軍勢を三手に分けており、わざと敵に橋を渡らせてから流れの深みに追い込み、一気に雌雄を決すという作戦であった[33]。正成は敵の陣形がばらけたところで三方から攻め立て、大混乱に陥った敵は大勢が討たれ、残りは命からがら京へと逃げ帰った

[匿名さん]

#5312021/07/19 22:56
「坂東一の弓取り」宇都宮との駆け引き​

その後、六波羅は隅田、高橋の敗北を見て、武勇で誉れ高い宇都宮高綱(のち公綱)に正成討伐を命じ、7月19日に宇都宮は京を出発した[33]。宇都宮は天王寺に布陣したが、その軍勢は600-700騎ほどであった[33]。

和田孫三郎は正成に戦うことを進言したが、正成は宇都宮が坂東一の弓取りであること、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評してその武勇を恐れ、「良将戦わずして勝つ」と述べた[33]。その後、夜にあちこちの山で松明を燃やし、宇都宮がいつ攻めてくるのかわからないような不安に陥らせ、三日三晩これを行った[33]。

7月27日夜半、宇都宮がついに兵を京へ引くと、翌朝には正成が天王寺に入れ替わる形で入った[33]。正成は天王寺に進出してからその勢いをさらに増したが、庶民に迷惑をかけてはならぬと部下には命じており、すべての将兵に礼を以て接したため、その勢いはさらに強大となった[33]。

8月3日、楠木正成は住吉神社に馬3頭を献上し、翌日には天王寺に太刀と鎧一領、馬を奉納した

[匿名さん]

#5322021/07/19 22:57
千早城の戦い​

千早城合戦図(長梯子の計の場面が描かれている。湊川神社蔵、歌川芳員画)
詳細は「千早城の戦い」を参照

やがて、北条高時は畿内で反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に30万余騎の追討軍を東国から派遣した[35]。これに対し、正成は河内国の赤坂城の詰めの城として、千早城をその背後の山上に築いた。正成は金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、千早城、上赤坂城、下赤坂城の3城を以て幕府に立ち向かうことにした。

元弘3年/正慶2年(1333年)2月以降、正成は赤坂城や金剛山中腹に築いた千早城で幕府の大軍と対峙し、ゲリラ戦法や落石攻撃、火計などを駆使して幕府の大軍を相手に一歩も引かず奮戦した(千早城の戦い)[36]。正成は後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、 大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに幕府勢力に果敢に立ち向かい、同年閏2月に後醍醐天皇は隠岐を脱出した[36]。

幕府の軍勢が千早城に釘付けになっている間、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、赤松円心ら反幕勢力が挙兵した。5月7日には足利高氏(のち尊氏)が六波羅を攻め落とし、京から幕府勢力は掃滅された。5月10日、六波羅陥落の報が千早城を包囲していた幕府軍にも伝わり、包囲軍は撤退し、楠木軍の勝利に終わった[37]。

そして、5月22日に新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたが、その挙兵は正成の奮戦に起因するものであった。正成の討伐にあたって膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなった義貞が幕吏を殺害・投獄して反旗を翻したのである[38][39]。

正成は後醍醐天皇が京へ凱旋する際、6月2日に兵庫で出迎え、道中警護についた[40]。天皇が兵庫を出発して以降、正成はその行列の先陣を務め、その後陣には畿内の軍勢7千騎を引き連れていた

[匿名さん]

#5332021/07/19 22:58
週末に行ってみるわ!どんなエロい嬢がいるのか楽しみ。

[匿名さん]

#5342021/07/19 22:58
足利方との戦い​

後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、検非違使、河内・和泉の守護、河内守(国司)となる[14]。また、そのほかにも河内新開荘、土佐安芸荘、出羽屋代荘、常陸瓜連など多くの所領を与えられた[14]。正成は建武の新政において後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光、名和長年、千種忠顕とあわせて「三木一草」と併称され[14]、「朝恩に誇った」とされる[41]。

だが、建武元年(1334年)冬、正成が北条氏残党を討つために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡された。その直後、正成は建武政権の役職の多くを辞職したとされることから、正成は護良親王の有力与力であったと見られている。

建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった尊氏が、鎌倉で新政に離反した。追討の命を受けた義貞は12月に箱根・竹ノ下の戦いで尊氏に敗れて京へと戻り、これを追う尊氏は京へ迫った。

だが、翌年1月13日に北畠顕家が近江坂本に到着すると、正成は義貞や顕家と合流し、連携を取って反撃を仕掛けた。28日、正成は義貞、顕家、名和長年、千種忠顕らと共に京都へ総攻撃を仕掛ける[注釈 4]。この合戦は30日まで続いた[42]。この合戦の結果、尊氏は京都を追われ、後醍醐帝が京都を奪還する。

合戦は正成の策略と奇襲によって後醍醐帝らの勝利に終わり、京都の奪還には成功したものの、尊氏、直義兄弟ら、足利軍の主要な武将の首級を挙げることはできなかった。敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れたが、2月11日に正成は義貞、顕家とともに摂津豊島河原(大阪府池田市・箕面市)の戦い(豊島河原合戦)で足利方を京から九州へ駆逐する。

[匿名さん]

#5352021/07/19 22:59
朝廷との確執​

後醍醐天皇像(清浄光寺蔵)
『梅松論』には、後醍醐帝の軍勢が足利軍を京都より駆逐したことに前後して、正成が新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだと天皇に奏上したという話がある[43]。その根拠として、確かに鎌倉を直接攻め落としたのは新田義貞だが、鎌倉幕府倒幕は足利尊氏の貢献によるところが大きい[43]。さらに義貞には人望、徳がないが、足利尊氏は多くの諸将からの人望が篤い、九州に尊氏が落ち延びる際、多くの武将が随行していったことは尊氏に徳があり、義貞に徳がないことの証である[43]、というものであった。

正成のこの提案は、『梅松論』にしか記載されておらず、事実かどうかは不明である[44]。しかし、歴戦の武将であり、ゲリラ戦で相手を翻弄する手段を得意とし洞察力に長けた正成は純粋に武将としての器量として、義貞よりも尊氏を高く評価していた[45]。加えて、義貞と正成は、相性があまりよくなかったといわれる[44]。義貞は京都の軍勢を構成する寺社の衆徒や、その他畿内の武士達とは関係が薄く、『太平記』などに描かれる義貞は、鎌倉武士こそを理想の武士とする傾向があり、彼らへの理解に乏しかった。河内国などを拠点に活動する正成は、この点において、義貞と肌が合わなかったと考えられる[44]。一方で、尊氏は寺社への所領寄進などを義貞よりも遥かに多く行っていて、寺社勢力や畿内の武士との人脈も多かった。義貞よりも尊氏の方が理解できる、尊氏の方に徳があると正成が判断してもおかしくはないと考えられている[44]。

この提案は、天皇側近の公家達には訝しがられ、また鼻で笑われただけであり[46]、にべもなく却下されてしまった[43]。

義貞は、播磨国の白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、延元元年/建武3年(1336年)4月に尊氏は多々良浜の戦いで九州を制覇して態勢を立て直すと、京都奪還をめざして東進をはじめた。尊氏は高師直らと博多を発ち、備後国の鞆津を経て、四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの率いる船隊と合流して海路を東進し、その軍勢は10万を越していた。一方、義貞の軍勢はその数を日ごとに減らし、5月13日に兵庫(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)に到着した時には2万騎を切っていた

[匿名さん]

#5362021/07/19 22:59
兵庫への下向と決戦前夜​

桜井駅跡にある楠公父子別れの石像(大阪府三島郡島本町)
絶望的な状況下、義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられ、5月16日には正成は京から兵庫に下向した[48]。道中、正成は息子の正行に「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う」と述べ、桜井の宿から河内へ帰した[48]。これが有名な楠木父子が訣別する桜井の別れであるが、史実であるかどうかは不明である。

24日、正成は兵庫に到着し、義貞の軍勢と合流した。正成は義貞と合流したのち会見し、義貞に朝廷における議論の経過を説明した[48][49]。

『太平記』によると、その夜、義貞と正成は酌み交わし、それぞれの胸の内を吐露した[48]。義貞は先の戦で尊氏相手に連敗を喫したことを恥じており、「尊氏が大軍を率いて迫ってくるこの時にさらに逃げたとあっては笑い者にされる。かくなる上は、勝敗など度外視して一戦を挑みたい」と内情を発露した[49]。義貞は鎌倉を攻め落とすという大功を成し遂げたため、その期待から尊氏討伐における天皇方総大将という過重な重荷を担わされた。そのため、ずっと常に世間の注目を受けていて、それを酷く気にせざるを得ず、箱根竹下での敗北、播磨攻めへの遅参、白旗城攻略の失敗などについて、義貞は強い自責の念を感じていた[50]。

正成はこの義貞の心中の吐露に対して、「他者の謗りなど気にせず、退くべき時は退くべきであるのが良将の成すべきことである。北条高時を滅ぼし、尊氏を九州に追いやったのは義貞の武徳によるものだから、誰も侮るものはいない」といい、玉砕覚悟の義貞を慰めると同時に嗜めた[50]。正成の説得で義貞の顔色は良くなり、夜を通しての彼らの物語に数杯の酒が興を添えた、と『太平記』は語っている[48]。

しかし、正成は周囲の悪評や恥にばかり固執して勝敗を度外視した一戦を挑もうとする義貞の頑迷さに、同情したが同時に落胆もしたのではないか、と峰岸純夫は分析している[51]。いずれにせよ、正成にとっては義貞と酌み交わした夜が最後の夜となった

[匿名さん]

#5372021/07/19 23:00
湊川の戦いと最期​

湊川の戦いにおける布陣
詳細は「湊川の戦い」を参照

25日の辰刻(午前8時頃)、楠木・新田連合軍は足利軍と海を挟んで湊川で対峙した(湊川の戦い)。

山本隆志によれば、『梅松論』などから判断する限り、実際のこの戦いはそこまで大きな兵力差があった訳ではなく、細川定禅が率いる水軍の揺動と、それに乗った義貞の失策、その機をうまく突いて新田軍と楠木軍を分断させた足利兄弟の戦術的勝利という面が大きいという[52]。

戦いに敗北した正成は、弟の楠木正季と刺し違えて最期を遂げたと伝わる[53]。正成と正季の死に関しては『太平記』(二)巻第十六「正成兄弟討死事」に述べられている[53]。敗走して手勢の少なくなった楠木勢73人は民家に駆け込み、六間の客殿に二列に並んで座り十念を唱えながら自害したという[53]。死に際に正成は正季に九界のうちどこに行くことを願うか問うと、正季は「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候へ」と答えたという[53]。これはのちの「七生報国」の語の由来になった。

[匿名さん]

#5382021/07/19 23:01
南北朝時代​

湊川神社にある墓碑(嗚呼忠臣楠子之墓)
湊川で自害した正成の首は足利方に回収され、六条河原に梟首された[54]。だが、正成の首を見た人々は、延元元年/建武3年(1336年)初頭にも偽の首が掲げられたこともあって、その首が本物か疑ったという[54]。その後、尊氏は残された家族を気遣い、正成の首を故郷である河内に送り返した[54]。

息子の正行(後世「小楠公」と称される)を筆頭に、正時、正儀らも正成と同じく南朝方として戦い、正行と正時は四條畷の戦いで激戦の末に戦死している。正儀は南朝の参議に登りつめ、(橘氏出身の自称は怪しいとはいえ)約400年ぶりの橘氏公卿となっている。孫の正勝は南北朝合一(明徳の和約)後も北朝に降らず、応永の乱で反幕府側として参戦し、その時の傷が元で死亡している。伝説では、正勝は「虚無」という普化宗の高僧となり、虚無僧や尺八を広めたとされる。また、彼らの子孫も後南朝に属して、北朝を擁する室町幕府と戦った。

[匿名さん]

#5392021/07/19 23:02
その後​

大阪府南河内郡千早赤阪村・南木神社所蔵の楠木正成木像。同社は1337年(延元2年)に後醍醐天皇により創建されたと伝わり、正成を祀る最古の神社である。
南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまった。だが、永禄2年(1559年)11月20日、正成の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて正成と楠木氏は朝敵でなくなった[原文 2]。ただし、この時点では「先祖である朝敵・正成の非を子孫が深く悔いたから」許されたという形式になっており、正成に非があるとする汚名の返上にまでは至らなかった[原文 2]。

楠木氏嫡流と言われた伊勢楠木氏は、伊勢国の金場(亀山市関町金場)や楠城を根城とする北勢四十八家楠氏として土豪になり、 また第2代当主正重が千子村正の門下に入って刀工になるなど細々と活動を行っていた[55]。 しかし、第7代当主楠木正具が1576年天王寺の戦いで戦死、次いで第8代当主楠木正盛(盛信とも)が1584年小牧・長久手の戦い加賀野井城で戦死したことで絶えた[55]。 刀工としては正重のほか千子正真、坂倉正利、雲林院政盛など千子派の名工を輩出し大いに栄えた[55]。 木俣氏(木俣守勝など。維新後は木俣男爵家)は伊勢楠木氏の傍系[56](ただし、守勝の後を養子が継いだ為、血筋では繋がっていない)。またアラビア石油創業者山下太郎[57]や、伊勢高楠家(仏教学者高楠順次郎が婿入りした家)が第7代当主正具の後裔を称する[58]。

明治政府は、南朝の功臣の子孫にも爵位を授けるため、正成の子孫を探した。正成の末裔を自称する氏族は全国各地に数多く存在したが、直系の子孫であるかという確かな根拠は確認することができなかった。このため、新田氏、菊池氏、名和氏の子孫等は男爵に叙せられたが、楠木氏には爵位が与えられなかった。その後、大楠公600年祭(昭和10年)を前後して楠木氏の子孫が確認され、湊川神社内に楠木同族会が組織されて現在に至っている。初代会長は、伊勢楠木氏傍系子孫とされるアラビア石油創業者の山下太郎である

[匿名さん]

#5402021/07/19 23:02
比較をわかりやすくするため、より歴史的事実に近いと思われる記述と、『太平記』によって世間に流布している記述を並列して示す。『太平記』が出典である場合、「出典」欄には巻数から記す。『太平記』章名は原則として天正本、そのため流布本と違う場合がある。『太平記』は月日の錯誤が多く、特に元弘2年(1332年)の正成再挙兵を8ヶ月も前倒ししている。ただし、元弘の乱の始期と終期(鎌倉幕府滅亡)、正成の命日は他の文献と一致する。

[匿名さん]

#5412021/07/19 23:03
故・菊池武時に戦功を譲る​

『菊池武朝申状』(弘和4年(1384年)7月日)によれば、武朝の曽祖父の菊池武時が元弘の乱で戦死した後、その論功行賞の場で、正成は自らの功績を誇らず、他人である武時の功を強く推薦したという[188]。曰く、元弘の乱では忠烈の者も労功の輩も多いが、みな生き長らえた者である[188]。しかし、武時入道ひとりは勅諚によって落命した者である[188]。忠厚第一とするのは当然ではないか、と論じた[188]。そのため、正成の主張を後醍醐天皇は聴き入れたという[188]。

上の「忠厚」という語については、平田俊春「楠公の戦死に関する学説について」(1940年)は「忠義」の意に解しているが、今井正之助「解説 正成討死をめぐる諸説と正成の出自」(2007年)は、『太平記』等の当時の諸書での用例を考えるなら、ここでいう「忠厚」とは「忠功」[注釈 14]つまり(戦での)「功績」のことであろうと指摘している

[匿名さん]

#5422021/07/19 23:04
足利方からの評価​

南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』でも正成に対して同情的な書き方をされている。理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたためとされる。

[匿名さん]

#5432021/07/19 23:05
軍事面​

今日でいうゲリラ戦法を得意とした正成の戦法は、江戸時代に楠木流の軍学として流行し、正成の末裔と称した楠木正辰(楠木不伝)の弟子だった由井正雪も南木流軍学を講じていた。その他、応仁の乱前後から正成著と称する偽書の軍学書が多く作られ、伊藤博文も偽書の一つ『雑記』の古本を秘蔵し、のち末松謙澄子爵が入手して称賛しており、室町時代から明治初期に至るまで影響は大きかった[190]。

楠木正成は、既に古典『太平記』巻16「楠木正成兄弟以下湊川にて自害の事」において、三徳兼備の和朝最大の武将として評価されている。南北朝分裂以降、仁が無い者は北朝に寝返り、勇が無い者は死を恐れてかえって死罪に合い、智が無い者は時流の変遷を理解できず道理のない振る舞いばかりしていたが、そのような中、ただ一人楠木正成のみが智・仁・勇の三徳(『中庸』で「天下の達徳」とされる儒学最高の理想)を兼ね備え、古今これほど偉大な死に様をした者はいない、と同書は評価している。

正保2年(1645年)に活字本が刊行された『太平記評判秘伝理尽鈔』は江戸時代に軍学書のベストセラーとして広く読まれたが、『太平記』の正成賛美を受け継ぐ傾向が強く、正成が「坂東一の弓取り」宇都宮公綱を計略で撤退させるだけで直接対決しなかったことについても、出典の怪しい逸話を引いて、優れた将同士が直接戦えば双方に被害が甚大だったであろうから戦を仕掛けなかったのだ、と正成が弁解する話を伝えるなどして弁護している[4]。また、「正成は多聞天王の化生(軍神の化身)ではなく、智・仁・勇を極めただけの人間だ」という論に対し、「もともと智が無かった者でも、その後に学問を好めば智者と呼ばれるように、(三徳を極めた人間こそが)多聞天にして聖人なのだ。正成には敵を退けて朝家を守護したという事実があるのだから、それは多聞天が帝を守護したのと違いがあろうか」という反駁で総括している

[匿名さん]

#5442021/07/19 23:07
江戸初期の儒学者は中国の人物を高く評価する傾向にあり、山崎闇斎『大和小学』(明暦3年(1657年))は、前漢の張良、蜀漢の諸葛孔明、唐の郭子儀を三徳に近い中国史の名将とし、日本の楠木正成は孔明の次ぐらいであって、これを三徳兼備などと称するのは『中庸』を読んだことがないのだろう、と評している[4]。とはいえ、日本最高の名将が楠木正成であるという前提は、『太平記』から引き続いている[4]。

こうした江戸の儒家の影響を受けて、寛文5年(1668年)に江島為信が著した軍学書『古今軍理問答』は、『太平記』の流れを組む正成神聖視から離れ、正成を「智謀」のある大戦術家・大戦略家とはしながらも、「三徳兼備」という聖人評価については「孔子ですら智仁勇を自称せず、まして日本は夷国であって人の気質も偏屈で、賢人すらいない。楠木正成は日本国内においては無双の英雄の士ではあるが、智仁勇というほどではない」としている[4]。また、『太平記評判秘伝理尽鈔』の出所不明の逸話を正し、その戦術・戦略についても、挙兵を急ぎすぎて赤坂城の用水設計に難があった点など、非がある部分については非を責めている[4]。ただし、総合評価としては、正成を日本第一の武将とする結論はやはり変わらない[4]。敵を見てその戦術を転化する変幻自在の謀計や、この時代にあって兵糧・用水など兵站の確保を重要視したこと、千早城という天険の要害を見出した築城技術などを評価している[4]。『古今軍理問答』は、『保元物語』『平治物語』『平家物語』『甲陽軍鑑』なども論じているが、それらの主要人物である源義朝・源義経・武田信玄・上杉謙信などを差し置き、正成を「日本開闢以来の名将」の異名で呼んでいる

[匿名さん]

#5452021/07/19 23:07
寛文12年(1672年)、陽明学者熊沢蕃山は、甲州流軍学、越後流軍学、信州流軍学のうちどの軍法が優れてるのか、との問に、個人の将として優れているのは越後の景虎(ここでは上杉謙信の初名)、技術で優れているのは甲州・信州としつつも、戦国時代の軍法は小競り合いの類である、小事を知るには良いが、義経・正成・義貞(の軍法)の後に本当の合戦というのは存在しない、と答えている(『古事類苑』「兵事部」巻1に引く『集義和書』巻11)[191]。

日夏繁高『同志茶話』は、源義経を「今古無之名将」、楠木正成を「古今無双の良将」と、日本史上の名将双璧とするが、正成が義経の兵法を研究したとする『太平記評判秘伝理尽鈔』の説については疑っている(『古事類苑』「兵事部」巻1に引く『同志茶話』巻6)[192]。また、正成の千早城の籠城戦や藁人形を使った謀計などを評価しつつも、二人の名将は神速奇謀を主とした将であり、手本としてたやすく学べるものではない、と、楠木正成の戦法を取り入れたと自称する楠木流軍学などを批判している[192]。

『国史大辞典』(1997年)でも、1336年の豊島河原合戦で勝利に沸き尊氏は再起不能であると楽観論を述べる後醍醐天皇軍に対し、尊氏はすぐに再挙して東上するであろうと予見して苦言を呈したことについて、「軍略家としての非凡な資質をうかがうことができる」と評されている

[匿名さん]

#5462021/07/19 23:13
皇国史観​[編集]

江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、正成は忠臣として見直された。会沢正志斎や久留米藩の祀官真木保臣は楠木正成をはじめとする国家功労者を神として祭祀することを主張し、慶応3年(1867年)には尾張藩主徳川慶勝が「楠公社」の創建を朝廷に建言した[193]。長州藩はじめ楠公祭・招魂祭は頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがて後の湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えた[193]。

明治になり、南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られる。また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義のために従容と逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られた。

佩刀であったと伝承される小竜景光(東京国立博物館蔵)は、山田浅右衛門の手を経て、明治天皇の佩刀となった。明治天皇は大本営が広島に移った時も携えていたとされる。

[匿名さん]

#5472021/07/20 00:07
>>488
チンカステメェもまともじゃね~んだよまともな人間バクサイクレクレコジキしね~んだよバーカ!タダ匿名で蟻梨レポ聞いて店イクッてか?それがまとも?生きてて恥ずかしくね~の?世間からすればテメェもまともじゃね~んだよ爆サイの中ではまともってかWwWWw

[匿名さん]

#5482021/07/20 00:34
早く、この変な奴
退散させてくれ

[匿名さん]

#5492021/07/20 03:15
西岡のこと書いたら無駄レスで流すよね(笑)

[匿名さん]

#5502021/07/20 06:12
>>547
お前も基地外やな

[匿名さん]
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