“ジャンボ鶴田をキレさせた男”仲野信市、新日本と全日本ですれ違い続けた越中詩郎と令和の交差点 7/2(金) 8:00配信
仲野信市(左)にヒップアタックを見舞う越中詩郎
「ジャンボ鶴田メモリアルマッチ」が全日本プロレス「2021 Champions Night~三冠統一の地から50周年への飛翔~」(6月26日、東京・大田区総合体育館)で開催された。
鶴田さんが2000年5月13日に49歳で亡くなってから21年。後輩だった渕正信(67)と越中詩郎(62)が高杉政彦(66、元ウルトラセブン)、土方隆司(43)と組んで、仲野信市(58)、西村修(49)、SUSHI、力(39)組と対戦した。
当初は命日に近い5月16日に開催予定だったが、緊急事態宣言による延期で1か月以上が経過したため、追悼セレモニー(10カウントゴング)は行われず、参戦予定だった最古参のグレート小鹿(79)が新型コロナウイルス感染から回復後の静養で欠場し、昭和色が薄いメモリアルマッチになった。
おまけに力道山の孫で、百田光雄(72)の息子の力のグダグダぶりが悪目立ち。最後は越中詩郎が9分44秒、ジャンピングヒップアタックからの体固めで力を仕留めた。
[匿名さん]
元世界ジュニア王者でもある仲野信市の姿を見るのは20年ぶりだった。
2001年に引退し、居住地の長野限定で試合している仲野が全日本プロレスに登場するのは、16年1月の長野大会以来5年ぶり。
バックステージでは「もうちょっと長くやりたかったですね。越中、渕、高杉…、昔のメンバーと試合がしたかったですね。だけど、やっぱり次の世代を担う若い人がね、もうちょっとしっかりしてもらわないと困ります」と言って力にチョップを見舞って下がった。
一期一会の機会なので、追いすがって仲野に話を聞いた。「鶴田さんのメモリアルという名目がなかったら出場することはなかったですよ。恩返しというか、少しでも…何かうまく言えないですけど、鶴田さんのおかげで仲野信市という名前が少し売れたというのもあるんで、あのドロップキックのおかげで…」
新日本プロレスから1984年に長州力についてジャパンプロレスの旗揚げに参加し、全日本プロレスに登場。
長州らが新日本にUターンした時に谷津嘉章とともに全日本に残り、ジャパンプロレスのナンバー2に就いた。
日本テレビがゴールデンタイム(土曜午後7時)で中継していた87年に谷津とのコンビでジャンボ鶴田、天龍源一郎の鶴龍コンビに挑戦した。長州の代役という荷が重い戦いだったが、ミサイルキック(コーナー最上段からのドロップキック)を鶴田の顔面に見舞う荒技で鶴田の口を切り、天龍革命以前に鶴田をキレさせた(本気にさせた)ことが伝説に残っている。
仲野のキャリアを振り返ると、越中とは見事なまでのすれ違い人生だった。80年に新日本プロレスでデビューした仲野は84年に全日本へ。一方の越中は79年に全日本でデビューし、85年に新日本に移籍。84年にメキシコ遠征に出ていた越中は、仲野らジャパン勢の参戦で飽和状態になった全日本に戻る余地がなくなり、逆に大量離脱で戦力不足だった新日本に呼ばれた。
[匿名さん]
越中は仲野の同期の高田伸彦(現・延彦)からIWGPジュニアヘビー級王座を奪取し、仲野は越中とルー・テーズ杯決勝を戦った三沢光晴さん(2代目タイガーマスク)と決起軍を結成した。
そして、渕正信を破って世界ジュニアヘビー級王者にもなった。三沢さんは亡くなり、高田はすでに引退。
令和になって、仲野と越中がジャンボ鶴田さんの名の下に、リングでぶつかる“アラ還の奇跡”。
この大会は「三冠統一の地から50周年への飛翔」というサブタイトルがついたが、1989年4月18日に、鶴田さんがスタン・ハンセンに勝ってインターナショナル、UN、PWFのヘビー級王座を統一したのが旧大田区体育館。
仲野が1980年3月1日に斉藤弘幸(ヒロ斉藤)を相手にデビューしたのもこの会場だった。
「感慨深いものがあるんですけど。鶴田さんには、ありがとう、私はまだ元気ですと(伝えたい)。現役とは言えないですけど、呼ばれたらそれなりに練習してコンディション作って出ますよ」と日焼けしてシェイプされた体を汗で光らせて仲野は話した。
昭和の新日本と全日本の熱量は令和の今も残っている。
[匿名さん]
レスラーにしては,「俺が、俺が‥」と言うタイプで無かったね。元々、一般のサラリーマン的な事のほうが
向いてたのかもしれない。自己主張しない人だから・・。
[匿名さん]
新日前座時代 高田伸彦が最大のライバルであり仲が良かった
[匿名さん]
レッスル夢ファクの後楽園ホール興行、休憩中に廊下でタバコ吸ってたのは衝撃的だった。
[匿名さん]