870
2023/11/26 14:42
爆サイ.com 山陽版

サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
報告 閲覧数 3488 レス数 870

#1712019/05/04 07:02
✴日本サッカー協会公式オンラインストア✴
[JFA STORE]


■□けん玉(SAMURAI BLUE)□■

\3,240(税込)


■商品説明
競技用けん玉生産「日本一」の認定工場、山形工房が手掛けた国産・本格派仕様のオリジナルけん玉です。
日本けん玉協会認定の競技用けん玉で、けん玉検定や大会にもチャレンジできます。 この企画の為に製作したデザインで、玉部分にエンブレム、持ち手にSAMURAI BLUEの印刷を施しており、よりオリジナル性を高めています。
商品付属の山形工房けん玉アプリをダウンロードして頂くことで、持ち方などの解説やわかりやすい解説動画をご覧いただけ、初めての方でも気軽にお楽しみいただけます。 健康づくりや集中力の向上などにも役立つけん玉をぜひお楽しみください。

付属品:取扱説明書、替え糸

◇素材
木材:ブナ、サクラ
糸:ナイロン

◇製造国
日本

◇サイズ
H180×W70×D60㎜

[匿名さん]

#1722019/05/06 07:20
森 孝慈(もり たかじ、1943年11月24日 - 2011年7月17日)は、広島県福山市出身のサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィルダー。サッカー日本代表として56試合に出場し、1968年メキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得した。


基本情報
生年月日
1943年11月24日
広島県福山市

没年月日
2011年7月17日(67歳没)

東京都目黒区
身長
173cm
体重
65kg
選手情報
ポジション
MF/DF

■ユース
1959-1961
修道高校
1962-1966
早稲田大学

■クラブ
1967-1977
三菱重工

■代表歴
1966-1976
日本

■監督歴
1981-1985
日本

1992-1993
浦和レッドダイヤモンズ

1998
アビスパ福岡

■獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
銅 1968


「浦和レッドダイヤモンズの父」「浦和レッズ生みの親」と称される。

実父は教師、広島県庁および日本体育協会職員で、原爆被災後の広島市内の様に衝撃を受け、街をうろつく原爆孤児を引き取り、戦後広島湾・似島に似島学園を設立したことで知られる森芳麿。実兄は日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設へ大きな舵取り役を果たした森健兒。

[匿名さん]

#1732019/05/06 07:21
■選手時代
福山市西町で生まれる。父・芳麿の似島学園創設に伴い一家で似島に転居し、孝慈は2歳から中学三年まで広島市似島で育ち、高校からは学校近くに一人で下宿した。小学校4年からは毎日船に乗って島外の学校へ通学、広島市立皆実小学校、修道中学校・修道高等学校で学んだ。海で鍛えた泳ぎを買われ中学3年間は水泳部に在籍、中3の卒業間際から親友の若山待久に誘われ本格的にサッカーを始める。成績も常にトップクラスで学級委員。女生徒に人気の的だった。

修道高校2年までは小城得達らがいた広大付属高校が全盛期で歯が立たず、全国出場はならなかったが、東洋工業(現-サンフレッチェ広島)とも練習試合をしてもらい鍛えられた。1961年、修道高3年時には下村幸男監督のもと、国体優勝(決勝1-0、浦和市立)。更に同年度の全国高校サッカー選手権で、釜本邦茂・二村昭雄らを擁する山城高校を破り優勝、当時の高校の全タイトル、高校2冠を達成した。当時のチームメイトには中村勤・吉田浩らがおり、キャプテンを務めた若山待久は後にJFAスポーツ医学委員として日本代表の医療スタッフとなる。

1962年に早稲田大学第一政治経済学部自治行政学科に入学し、ア式蹴球部に入部。松本育夫・野村尊敬・桑田隆幸・大野毅・二村・釜本らと早稲田の黄金時代を創る。1964年の第43回天皇杯全日本サッカー選手権大会では1年で日立本社(現柏レイソル)を3-0で破り、早稲田26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。1966年は主将を務め、第46回天皇杯全日本サッカー選手権大会の決勝で東洋工業(現-サンフレッチェ広島)を破って優勝した。これは天皇杯、最後の学生優勝である。当時の早稲田は作戦を選手で決めていたという。

[匿名さん]

#1742019/05/06 07:22
大学卒業後の1967年に日本サッカーリーグ (JSL) の三菱重工(現浦和レッドダイヤモンズ)に入団。杉山隆一、横山謙三らと共に主力選手として活躍し、1969年には当時日本リーグ4連覇中だった東洋工業を破り初優勝を遂げた。JSLでは通算146試合出場、28得点。また日本代表でも、1967年のメキシコオリンピック予選前から、主にストッパーとしてチームの中力選手となると、メキシコオリンピック予選第1戦から1968年のメキシコオリンピック本戦、1970 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選、1970年アジア競技大会にかけて国際Aマッチ32試合連続出場。これはメキシコ五輪世代では1位の記録に当たる。

国際Aマッチは計55試合出場2得点の記録を残し、メキシコオリンピックでは銅メダルを獲得した。メキシコ五輪の主力が抜けた後は、1970年代の日本代表を中盤の司令塔として釜本らと支える。

[匿名さん]

#1752019/05/06 07:24
■日本代表監督
知的なプレーぶりは指導者向きと、長沼健ら日本サッカー協会(JFA)幹部から早くから見込まれ、引退後はJFAの指導者としてエリートコースを歩む。1979年、各競技のオリンピック・メダリストを対象にナショナル・コーチを育成しようという日本体育協会のプログラムからの助成を受けて、西ドイツにコーチ留学に送り出され、1.FCケルンのヘネス・バイスバイラー、リヌス・ミケルスらから一年間、指導法を学ぶ。1980年10月、渡辺正日本代表監督が病気で倒れたため急遽呼び戻され、予定より早く同年11月帰国、川淵三郎監督下でコーチに就任した。川淵は強化部長兼任で名目上の監督、事実上チームの指揮は森が担った。1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選の敗退で、翌1981年4月からは川淵の後を受け日本代表監督に就任、アマからプロへの端境期だった1980年代に一時代を築く。理論派と評され「日本の切り札」として期待はかつてないものであった。プロ化を進める日産や読売、アマにこだわる古河や三菱など出自の異なる混成軍を巧みにまとめ上げた他、既成概念にとらわれることなく、2部リーグや大学リーグにも足を運んで選手をピックアップ、これまでにない革新的なチーム作りを行った。この頃からテクニックに優れた新しい世代が台頭したこともあって、そうした選手たちを中心に、パスをつなぐ攻撃的なスタイルでロサンゼルスオリンピック予選に臨んだ。またそれまで勝利給はおろか日当さえも出なかった日本代表チームの報酬金や宿泊ホテルの改善などにも尽力した。

[匿名さん]

#1762019/05/06 07:25
1980年代、日本は企業スポーツ全盛だった。いち早くプロ契約制度を導入した読売クラブなどの一部の選手を除いて、大多数は勤務する会社からの月給で生計を立てるサラリーマン。代表合宿中は、いわゆる出張。中には欠勤扱いの選手もいた。現役を辞めれば、そのまま会社勤めに入るのが当たり前の時代、副主将ながら控えで出番の少なかった岡田武史が「もう、ええですわ」と、代表には呼ばないで欲しいと言ってきたときには耳を疑ったという。戸塚哲也などは「代表でプレーすることに魅力を感じない」と公言していた。日本体育協会に加盟する一競技団体だったJFAも現在のような潤沢な運営資金はなく、代表のスタッフは、監督とコーチにドクターとマッサージ師が各一人だけ。マネージャーもおらず、監督が選手のパスポートを集めてチェックインなども行っていた。代表選手に支払われるお金は交通費のみ。森も三菱から出向中のアマの代表監督で勿論、無報酬。読売などの契約選手がクラブから出場給や勝利給を手にする一方で、社員選手の臨時報酬といえば、海外遠征時に会社から餞別が渡される程度だった。選手間で格差があり、これでは人間的に信頼し合うことが出来ない、と森はJFAの当時の専務理事・長沼健と何度も掛け合い1982年から1日3千円の手当てが日本代表につくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつく形になった。日本のライバルである韓国では1983年よりプロリーグが始まり、韓国代表選手に金銭的手当てが出るようになっていた。そのことを代表選手も知っていた為、森監督は「韓国との待遇の差を言い訳に出来ない形にしたかった」のだという。

[匿名さん]

#1772019/05/06 07:25
1982年アジア競技大会では韓国を初めて国外で破り、親善試合においてオランダのフェイエノールトやブラジルのコリンチャンスの海外の強豪クラブを破る成果を見せた。当時の日本代表の親善試合の相手は海外のクラブチームと決まっていた。しかし、親善試合の大活躍で攻撃の軸と期待された尾崎加寿夫がドイツ・ブンデスリーガのビーレフェルトに移籍したのが響いた。当時は国際試合の時に海外移籍した日本人選手を呼び戻して代表入りさせるという発想はなかった。試行錯誤の末、フォワードの軸はヘッドの強い原博実を据えて柱谷幸一と組ませて、所属クラブで攻撃的MFにコンバートされていた木村和司を司令塔に、金田喜稔(後に水沼貴史)を絡ませた日産勢を攻撃の柱にする布陣で挑むが肝心のロサンゼルスオリンピック最終予選では連敗を重ね敗退した。当時の日本代表の情報収集能力は低く、初戦の相手、タイの試合のビデオを集めることもできず、相手チームについて何も知らずに初戦に臨み、タイのエース・ピヤポンにハットトリックを決められるなどで2-5の大敗(ピヤポン・ショック)。結局これが尾を引き4戦全敗に終わった。大会の直前にそれまでいなかったベテランを加えたことで、若手中心に団結していたチームのバランスが崩れてしまったともいわれる。

[匿名さん]

#1782019/05/06 07:27
森は辞意を表明したが慰留され、1985年に開催された1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では北朝鮮代表に史上初めて勝利し、平壌金日成競技場で北朝鮮代表と"完全アウェー"を戦うなど1次予選、2次予選を突破。宮内聡と西村昭宏で、後に世界の主流になるダブルボランチをいち早く取り入れるなどで1985年10月の最終予選に進出。当時のW杯でのアジアの出場枠は「1」(東アジアと西アジアで1枠ずつ)。この当時の代表チームは守備の加藤久、左サイドバックの都並敏史、右サイドバックの松木安太郎、中盤の木村和司、前線の原博実、水沼貴史ら、職人気質の個性派を擁し、強い結束力を持ち合わせた事から森ファミリーと呼ばれた。北朝鮮とのアウェー戦に、累積警告で出場停止だった松木安太郎を「彼もチームの一員だから」と帯同させた。感謝に震えながらボール運びなど下働きする松木を仲間は暖かく包んだ。

[匿名さん]

#1792019/05/06 07:08
1985年10月26日、国立競技場での韓国代表とのアジア最終予選の初戦は、代表の試合で初めて国立が満員になった。代表戦にお客が入るようになり、サッカー協会の収入が増えてきたのはこの頃から。テレビの実況を担当したNHKアナウンサー・山本浩の「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」というオープニングの名台詞でも有名な試合であるが、立錐の余地もなく埋め尽くされた62000人の大観衆と、スタンドにはためく無数の日の丸、かつて体験したことのない異様な熱気は、皮肉にも日本代表イレブンに過剰なプレッシャーとなってはね返った。また、韓国代表監督の金正男は、森の大学時代からの20年来の親友でもあり、冷静に日本代表を分析していた。「日本は前後半の開始25分ぐらいまでに点を取ることが多い。だからリスクを冒すことなく30分までは守りを固めていく」と、金が韓国イレブンに与えたこの指示で、引き気味に試合を進める韓国に対して、ボール支配率で上回った日本がペースを握っているかに思われたが、それは相手に仕組まれた巧妙な罠だった。効果的な攻撃を生み出せないままに時間は過ぎ、前半30分に韓国の右からのセンタリングを石神良訓がクリアしたキックが短く、そのキックミスをつけ込まれ先制点を奪われると、韓国に対する長年のコンプレックスから選手は大きく動揺し41分、再びミスから致命的な2点目を奪われた。このゴールの直後に木村和司のフリーキックで1ゴールしたものの、1-2でホームでの敗戦を喫するとソウルでの第2戦も0-1で敗れ、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが韓国に敗れた。この時のチームは「ドーハの悲劇」以前に最もワールドカップに近づいたチームであったとサンケイスポーツなどは報じている。

[匿名さん]

#1802019/05/06 07:30
わずか1点という最少得点差での敗戦ではあったが、またも力の差を見せつけられた。森は「韓国と日本の差はプロで有るか無いかに尽きる」「韓国に追いつくには日本にもプロを作るしかない」と明言した。各ポジションにスペシャリストがいて完成度の高かったこのチームの敗戦によって、森を始め日本サッカー界全体がプロ化の必要性を痛感したものの、長沼健に迫った森のプロコーチとしての契約要求は受け入れられず(森自身も三菱重工からの出向の身だった)、1986年辞任した。協会の微温的体質に一石を投じたこの行動が、後のJリーグ創設という大河の一滴になった。また森が取り組んだ改革に今日の日本代表チームの原点があるともいわれる。日本代表監督のプロ契約が始まったのは、森退任から3年後、1988年1月に就任した横山謙三から(年間300万円)。横山のプロ契約(実際はセミプロ契約)を協会に要請したのは三菱重工の人事部課長に戻っていた森という[46]。この時からようやくプロの指導者が代表チームを指揮するという慣例ができた。

森ファミリーのメンバーは現在、協会幹部、指導者として活躍している者が多いが、とても仲が良く今も年に1度集まるという。

[匿名さん]

#1812019/05/06 07:31
■浦和レッズ創設期

その後は三菱重工の人事部に戻りサッカー部副部長兼総監督。1988年、兄・健兒、木之本興三らとJSL活性化委員会(翌1989年、プロリーグ化検討委員会、のちのJリーグ)を設立。三菱重工社内のプロ化担当者としてサッカー部のプロ参加を嘆願、サッカー部の三菱自動車工業(以下、三菱自工)移管に関わる。重工は防衛庁や企業相手の仕事で、大衆にアピールするプロスポーツはやらないだろうと予想し、前々から内々にファンとの接点をつくりやすい自工移管を打診していた。社業としてドイツの事業所駐在が決定していたが三菱自工の清水泰男(のち浦和レッズ社長)の要請で1989年7月、三菱自工に転籍。サッカー部プロ化に対して、社内の反応は冷ややかだったといわれるが、サッカー部のプロ化、立ち上げの中心人物として東奔西走した。

[匿名さん]

#1822019/05/06 07:31
1990年9月、浦和青年会議所が中心になって「浦和プロサッカー球団をつくろう会」が発足、浦和市はホンダの誘致が決定的だった。しかし同年10月、ホンダが浦和市の誘致を断わったため川淵三郎の仲介で「つくろう会」のメンバーと11月、西が丘サッカー場の近くのファミリーレストラン・すかいらーくで会う(森はそれ以前に浦和市の関係者と何度か接触はあった)。当初から浦和市はリストアップしていたが、浦和市はホンダで決定的だったため諦めていた。渡りに船のこの話に、この後は急ピッチに浦和レッドダイヤモンズ創設、Jリーグ入りが決定した。その後は仕事が山積み、会社との調整作業、及び1991年秋からJリーグ専務理事・兄健兒が主宰した「プロリーグ設立準備室」の選手委員会と選手委員会専門部会の合同委員会に参加するなど身を粉にした。更にスポンサー集めから、スタジアム改修の16億円以上の費用を自治体の政治家に掛け合う。昼は説明に回り、夜はその人たちと毎日会食。プロのクラブとは何か、誰も想像がつかない時代、みんなに応援される形を求め奔走した。会社に支援母体をつくろうと1991年にオフィシャルサポーターズクラブを組織、1992年度のクラブ数は615だったが、翌1993年には5178に増えた。その認定書一枚一枚に森は丁寧にサインをしていたという。森はチームが東京田町から移るはるか前に、自宅を浦和市に引っ越す等、森の人柄の良さから出世街道を歩んでいた藤口光紀(のち浦和レッズ社長)を始め、多くの人物がレッズ発足に参加した。森は自ら先頭に立って、Jリーグの理念である地元に密着したクラブ、チームづくりに心血を注いだ。清水泰男は「森ちんがいなかったら今のレッズはなかったと思います」と話しており、「今のレッズは森さんなくしてはあり得なかった」と昔を知る関係者の誰もが語っている。

[匿名さん]

#1832019/05/06 07:32
1992年からレッズの監督に就任。観客を喜ばそうと当時のクライフ監督率いるFCバルセロナが採用していた3-4-3の超攻撃的フォーメーションで挑み、1992年は天皇杯で準決勝まで進出した。しかし翌1993年にJリーグの公式戦が開幕すると、システムが相手に研究され尽くした事と補強の失敗、故障者続出でサントリーシリーズ、ニコスシリーズともに最下位となり、監督を辞任した。シーズン終了後の総括では「3年分は負けた」と語った。

ただ、森は、負けても愛された監督というよりは、負けが込むほど愛された監督であったと浦和フットボール通信は評し、「森さんのためなら叫ぶことができる」と浦和レッズのサポーターがコメントしていたと日刊スポーツなどが報じている。負けるほどにサポーターとの絆が強まる不思議な結果は、森の人柄が引き起こした現象であった。情の厚さが人を引きつけ、その美質は浦和レッズ発足前後にも遺憾なく発揮された。日刊スポーツや浦和フットボール通信などは、森についてレッズ初代監督としては成功したとは言い難いが、温かい人間味がファンを魅了し、熱狂的なサポーターを育てたと報じている。ぶぎん地域経済研究所(武蔵野銀行)は、浦和レッズが熱狂的サポーターを増やした原因について、開幕初年度に負け続けるレッズを「勝てない、とにかく勝てない」「いつ勝つのか」などと、日本人独特の判官びいきによる気質によってマスメディアが上位のチーム以上に取り上げたから。「出来の悪い子ほど可愛い」という状況となることでより愛されるチームとなった。もし5位や6位や、「ありきたりの成績」であったなら、あまり注目もされなかったであろう、等と論じている。

[匿名さん]

#1842019/05/06 07:34
■その後
1993年10月28日に行われた1994 FIFAワールドカップ・アジア予選の日本×イラク(ドーハの悲劇)のテレビ東京スタジオ解説を務めであり、1995年から1997年は横浜マリノスのゼネラルマネージャー、1995年には横浜マリノスは年間チャンピオンに輝いた。1998年はアビスパ福岡の監督を務め、1999年から2001年はアビスパ福岡のフロントを務めた。2002年から浦和のGMに就任。

社長の犬飼基昭、強化本部長に転任した中村修三とともにチームを改革、3年計画下でのハンス・オフトを監督に招聘しチームを強化、基礎作り2年の後2004年、ギド・ブッフバルト監督、ゲルト・エンゲルスヘッドコーチを招聘、大型補強の敢行で浦和に悲願のJリーグステージ初優勝、2005年第85回天皇杯、2006年第86回天皇杯連覇をもたらし今日につながるレッズの礎を築いた。オフトやブッフバルト、闘莉王、三都主らの獲得、岡野雅行のレッズ復帰は、森GM=中村強化本部長コンビで行い、犬飼社長が最終決定を下したもの[97]。また在任中、ユース、ジュニアユースの改革に着手し教育ではなくプロ育成の下部組織として再スタートさせた。2006年1月31日をもってGMを退任。

2006年、第3回日本サッカー殿堂にて委員会投票により掲額され殿堂入りを果たす。

2008年からは神奈川県横浜市を本拠地とするクラブチーム横浜GSフットボール・クラブの顧問、2010年発足した日本サッカー名蹴会名誉会長を務めた。

2011年7月17日、駒沢オリンピック公園に隣接する国立病院東京医療センター(東京都目黒区)に於いて腎盂癌のため死去。67歳没。奇しくもその日は2011 FIFA女子ワールドカップ(ドイツ)でサッカー日本女子代表(なでしこジャパン)がアメリカ合衆国を下して優勝した日でもあった。

[匿名さん]

#1852019/05/06 07:34
2011年7月23日に埼玉スタジアム2002、7月24日から31日まで駒場スタジアムに献花台を設けると、のべ2000人のファンがメッセージ、タオルマフラー、大好きだったお酒などとともに花を供えに訪れた。現役時代は攻撃と守備をつなぐ「リンクマン」と呼ばれる中盤の名手。人と人とを温かく結びつける、生き方もリンクマンであった。

[匿名さん]

#1862019/05/06 07:35
■エピソード

大学卒業後、森は兄のいる三菱重工入りを決め、早稲田大学の同級である釜本邦茂と、共に三菱重工に入社し「また二人でやろう」と約束していた。ところが関西在住で早大OBの川本泰三や賀川浩が「釜本、関西へ戻ってやれよ」と矢のような催促を受け、無理やり連れて行かれたヤンマーディーゼルの山岡浩二郎サッカー部長の熱弁で、催眠術のように入社を承諾してしまった。東京に戻り森に会いヤンマー入社を知らせると、森は「サッカーやるんだからいいさ。ともかく日本サッカーのためにがんばろうで」とだけ返した。「いつもグラウンドでもまず人のことを考えるいい奴、森は変心を咎めたり、詮索したりはしなかった」と釜本は語っている。

[匿名さん]

#1872019/05/07 00:43
□■dunhill■□

[ストア限定商品]
✴2019 SAMURAI BLUE メイド トゥ メジャー スーツ✴

\ 469,800(税込)


<アルフレッド ダンヒル>は2000 年から、SAMURAI BLUE(サッカー日本代表)が大切な場面に挑むスーツを作り続けてきました。
フィジカル、テクニカル、タクティカル、メンタルとあらゆる角度においてより高いレベルを目指し厳しいトレーニングを積むSAMURAI BLUE(サッカー日本代表)の姿勢は、サヴィル・ロウの歴史とともにクラフツマンシップを追及してきた<アルフレッド ダンヒル>のカスタムテーラリングに対する姿勢にも通じます。
なめらかなSuper120s のウール生地で作られたスーツは男性的なシルエットでボディラインをしなやかに包み、深いネイビーとホワイトが織りなすシャープなコントラストは、力強さを表現。スーツの他シャツ、タイ、タイバー、ベルトを取り揃えております。


■商品特徴
トーナルストライプを施すことでエレガントなブリティッシュスタイルを表現し、ナチュラルストレッチ仕上げによって上質で快適な着心地を実現しています。

スーツはメイド トゥ メジャーにて承ります。詳細はお問い合わせください。 ¥378,000(ウエストコート付き ¥469,800)
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■返品
商品にご満足いただけなかった場合は、返品規定に即して商品到着日を含めて14日以内に商品を返送していただくことが可能です。

■お問い合わせ
ダンヒル製品についてのお問い合わせやご注文のサポートをご希望の場合には、お気軽にお電話ください

[匿名さん]

#1882019/05/07 23:17
福山スポーツコミュニティクラブ【福山SCC】


◇法人概要

■理事長
小林 政嗣

■住所
〒721-0952
広島県福山市曙町6丁目11‐8

■電話番号
TEL 084-983-1225
(備福運送株式会社内)

■FAX番号
TEL 084-983-1226

■活動地域
福山全域

■対象
幼稚園児から一般市民まで

■設立・沿革
2016年4月
「一般社団法人福山スポーツコミュニティクラブ」設立
2016年8月
 福山SCCフットサルトップチーム設立
2017年2月
 福山SCCサッカートップチーム設立
2017年4月
 福山SCCチアダンススクール開校
主な活動
●スポーツを通じたひとづくり事業
●スポーツを通じたまちづくり事業
●福山にプロサッカークラブをつくるための活動
●地域コミュニティを形成する事業


◇役員紹介

■理事長
小林 政嗣

■副理事長
岩本 徹
佐々木 功

■専務理事
木村 圭介

■理事
門田 治己
塩出 喬史
黒瀬 貴之
村上 恭久
吉本 武史
大塚 智弘
山本 弘明

■監事
外野 浩志
萩田 啓祐



加藤賢士

[匿名さん]

#1892019/05/14 13:01
田口 光久(たぐち みつひさ、1955年2月14日 - )は、秋田県河辺郡河辺町(現在の秋田市河辺)出身の元サッカー選手。ポジションはGK。

■愛称
ダンゴ
メーランおやじ

■生年月日
1955年2月14日(64歳)

■出身地
秋田県秋田市

■身長
175cm

■体重
74kg

秋田市立秋田商業高等学校卒業後の1973年に三菱重工サッカー部(現:浦和レッドダイヤモンズ)に入部。同年には日本ユース代表としてAFCユース選手権準優勝に貢献、翌1974年にもユース代表に選出され同大会に出場した。所属する三菱では正GKに横山謙三がいた為、出場機会に恵まれなかったが3年目の1975年にポジションを奪取。翌1976年には日本代表に選出された。代表でも正GKの座を確保する様になり国際Aマッチ59試合に出場。また1982年から1984年まで主将も務め低迷期の日本サッカーを支えた。

引退後は指導者の道へ進み、秋田経法大附属高校や青森山田高校のサッカー部監督としてユース年代の育成に努めた。また、その体型からバラエティ番組出演を行う様になり、1991年から1993年頃にかけて、日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて」に出演し、PK対決コーナーでの木梨憲武のパートナーとしてゴールキーパーを務めていた、その際にラーメンが大好物で行った先々の御当地ラーメンを必ず食す事から「メーランおやじ」の愛称がついた。

現在はJリーグ解説者や国際学院高等学校サッカー部総監督として活躍している。

[匿名さん]

#1902019/05/14 13:02
田口は身長175cmであるが、現役時代は相手チームへの重圧を与えることを狙って178cmと高目にしてプロフィールに記載していた。その為、田口は「ゴールキーパーは身長でなく、俊敏な身体動作、ディフェンダーとのコンビネーションなどの総合力が大事である」としており、ヴァヒド・ハリルホジッチ日本代表監督が唱える「ゴールキーパーは身長190cm以上でないと良い選手とはいえない」という主張に対して反論している。

■所属クラブ
1970年 - 1972年 秋田商業高校
1973年 - 1984年 三菱重工

■代表歴
ワールドカップアルゼンチン大会予選
アジア競技大会(1978,1982)
モスクワオリンピック予選
ロサンゼルスオリンピック予選

国際Aマッチ 59試合 0得点(1975-1984)

■指導歴
1984年-1988年 秋田経済法科大学附属高等学校サッカー部監督。
1989年-1992年 青森山田高等学校サッカー部監督。
1993年-1997年 ルネス学園サッカー部総監督。
1998年-2000年 遊学館高等学校サッカー部総監督。
2001年-現在 国際学院高等学校サッカー部総監督。

■出演番組
サタ・スポ
とんねるずの生でダラダラいかせて!!
スポーツうるぐす
秘密のケンミンSHOW
クイズ☆タレント名鑑

[匿名さん]

#1912019/05/15 15:37
デッツォーラ島根、もう一貫の終わりかと思ったが、まだ大丈夫そうだね。

[匿名さん]

#1922019/05/15 15:56
< 2019年5月11日 >

■明治大が5年ぶり天皇杯へ 早稲田大を2−0で破る■

◇東京都サッカートーナメント 決勝◇


早稲田大学 0−2 明治大学

【得点者】
55分 佐藤亮(明治大)
90+4分 瀬古樹(明治大)


天皇杯東京都代表を決定する第24回東京都サッカートーナメント決勝、早稲田大学対明治大学の試合が11日、北区・味の素フィールド西が丘で行われ、明治大学が2−0で勝利し、5年ぶり5度目の優勝を飾った。明治大学は東京都代表として天皇杯に出場する。明治大学の天皇杯出場は2014年以来5年ぶりで14回目。

 前半からFW小柏や佐藤らを中心にボールを動かし、攻守に連動した動きで主導権を握った明治大は、前半こそ無得点に終わったが、後半10分に主将の佐藤亮が準決勝に続きネットを揺らす。前線でMF持井からの縦パスを受けるとドリブルで持ち上がり、エリア手前から左足を振り抜いて先制点を奪った。その後もMF持井のシュートがバーを叩くなど攻勢を強める明治大だが、追加点を奪えずにいると、終盤は早稲田大の反撃にヒヤリとする場面も。

 それでも守備陣が集中して無失点を継続すると、ロスタイム4分、味方のクリアボールから最終ラインを抜け出したMF瀬古が、落ち着いて右足で追加点を奪って試合を決めた。

 明治大は5月26日に行われる天皇杯1回戦で秋田県代表でJ3のブラウブリッツ秋田と対戦する。


◇東京都サッカートーナメント 準決勝◇

・東京ユナイテッド 0−1 早稲田大学
・東京武蔵野シティ 1−2 明治大学

[匿名さん]

#1932019/05/17 04:14
■第70回早慶サッカー定期戦・第18回早慶女子サッカー定期戦が7月12日(金)に開催されます。■

第70回早慶サッカー定期戦・第18回早慶女子サッカー定期戦-早慶クラシコ-の開催概要が決定致しましたので、お知らせ致します。

< 大会概要 >
大会名称:第70回早慶サッカー定期戦・第18回早慶女子サッカー定期戦-早慶クラシコ-


◇主催:一般社団法人神奈川県サッカー協会

◇主管:早稲田大学ア式蹴球部 慶應義塾体育会ソッカー部

◇後援:株式会社朝日新聞社

◇実施運営:第70回早慶サッカー定期戦委員会

◇開催日時:令和元年7月12日(金) 会場:14時30分 女子部:15時30分キックオフ 男子部:18時30分キックオフ

◇会場:等々力陸上競技場

◇入場料:前売券 900円、当日券 1,000円(※特別シートは一部価格が異なります。)、高校生以下 無料

◇対戦:男子部…早稲田大学ア式蹴球部 対 慶應義塾体育会ソッカー部

女子部…早稲田大学ア式蹴球部女子部 対 慶應義塾体育会ソッカー部女子


今年も会場にて熱い応援、宜しくお願いします!

[匿名さん]

#1942019/05/17 07:48
KUZZはデッツの事を書くのやめろよ。

こないだの試合だってお前ほとんど試合見ずにスマホいじりだったよな?

偉そうに語ってるんじゃないよ。

選手に対して失礼なんだよ。

[匿名さん]

#1952019/05/20 00:14
ジーコ (Zico) ことアルトゥール・アントゥネス・コインブラ(ポルトガル語: Arthur Antunes Coimbra、ポルトガル語発音: [aʁˈtuʁ ɐ̃ˈtũnis koˈĩbɾɐ]、1953年3月3日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現在は、Jリーグ・鹿島アントラーズのコーチ兼テクニカルディレクターを務める。

■本名
アルトゥール・アントゥネス・コインブラ
Arthur Antunes Coimbra

■愛称
白いペレ

■国籍
ブラジル

■生年月日
1953年3月3日(66歳)

■出身地
リオデジャネイロ州リオデジャネイロ市

■身長
172cm

■体重
72kg

■学歴
カステロブランコ大学体育学科出身。


[ 選手情報 ]
■ポジション
MF

■利き足
右足

■ユース
1967-1971
CRフラメンゴ

■クラブ
出場
(得点)

◇1971–1983
CRフラメンゴ
212
(123)

◇1983–1985
ウディネーゼ
39
(22)

◇1985–1989
CRフラメンゴ
37
(12)

◇1991–1994
住友金属/鹿島アントラーズ
45
(35)

■代表歴
◇1976–1986
ブラジル
71
(48)

■監督歴
◇1999
鹿島アントラーズ (代行)

◇2000–2002
CFZ

◇2002–2006
日本代表

◇2006–2008
フェネルバフチェ

◇2008
ブニョドコル

◇2009
CSKAモスクワ

◇2009–2010
オリンピアコス

◇2011–2012
イラク代表

◇2013-2014
アル・ガラファ

◇2014-2016
ゴア

■公式戦(日本)1993年Jリーグチャンピオンシップ 1試合0得点Jリーグ初出場:1993年5月16日 対名古屋グランパスエイト戦(茨城県立カシマサッカースタジアム)Jリーグ初得点:同上JSL(2部)初出場:1991年9月7日 対大塚製薬戦(住友金属鹿島総合グラウンド)JSL(2部)初得点:同上

[匿名さん]

#1962019/05/20 00:15
■主な監督成績
◇鹿島アントラーズ
1999年 ヤマザキナビスコカップ 準優勝

◇日本代表
2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 グループリーグ敗退(通算1勝2敗)
2003年 東アジアサッカー選手権2003 準優勝
2004年 AFCアジアカップ2004 優勝
2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ2005 グループリーグ敗退(通算1勝1敗1分)
2005年 東アジアサッカー選手権2005 準優勝
2005年 2006 FIFAワールドカップ出場権獲得(通算11勝1敗 アジア予選B組1位通過)
2006年 2006 FIFAワールドカップ本大会グループリーグ敗退(通算2敗1分)

通算成績 33勝12分15敗


[ タイトル ]
■選手時代
フラメンゴ
カンピオナート・カリオカ : 1972, 1974, 1978, 1979, 1979 (extra), 1981, 1986
カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA : 1980, 1982, 1983
コパ・ウニオン : 1987
コパ・リベルタドーレス : 1981
トヨタカップ : 1981

■監督時代
フェネルバフチェ
スュペル・リグ : 2006-07
ブニョドコル
ウズベク・リーグ : 2008
ウズベキスタン・カップ : 2008
CSKAモスクワ
ロシア・カップ : 2008-09

■日本代表
AFCアジアカップ : 2004

[匿名さん]

#1972019/05/20 00:17
■個人タイトル
ブラジル最優秀選手 : 1974, 1982
南米年間最優秀選手 : 1977, 1981, 1982
カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA得点王 : 1980, 1982
コパ・リベルタドーレス得点王 : 1981
トヨタカップ最優秀選手 : 1981
FIFAワールドカップベストイレブン : 1982
JSL2部得点王 : 1991-92
IFFHS選定20世紀世界最優秀選手 14位 1999
IFFHS選定20世紀南米最優秀選手 7位 1999
英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手 : 1983
英誌ワールドサッカー選出20世紀の偉大なサッカー選手100人 18位 1999
ビーチサッカーワールドチャンピオンシップ得点王 : 1995
ビーチサッカーワールドチャンピオンシップ最優秀選手 : 1995
フラメンゴ クラブ歴代最多得点記録(508得点)
マラカナンスタジアム歴代最多得点記録(333得点)
FIFA 100 2004
ゴールデンフット賞 (all time legend) 2006
アントラーズ功労賞 2009
日本サッカー殿堂 2016

[匿名さん]

#1982019/05/20 00:18
小柄な体格であり、しばしば「白いペレ」と呼ばれることもあったが、実力もペレ同様に高く、最も技術のあるフィニッシャー、最も優れたパサーの一人、1980年代初頭の世界一の選手とも評される。さらに、歴史上最も優れたフリーキックのスペシャリストの一人としても知られており、速いスピードで曲がるボールを蹴ることができた。2004年3月には、ペレによる偉大な存命サッカー選手125人にも名を連ねた。歴代最も偉大なサッカー選手と言われるペレは、「今までの間、私に最も近づいたのはジーコだった」と述べた。

ブラジル代表では、72試合に出場し52ゴールを挙げており、FIFAワールドカップでは1978年、1982年、1986年の3大会に出場した。これらの大会では優勝を逃したが、1982年のブラジル代表は最も優れたブラジル代表の一つと言われている。1981年と1983年に、雑誌「ワールドサッカー」は、世界最優秀選手に選んだ。

日本代表監督として、2006 FIFAワールドカップに出場し、AFCアジアカップ2004では優勝を果たした。また、フェネルバフチェSKを指揮し、UEFAチャンピオンズリーグ2007–08で準々決勝に進出した。

[匿名さん]

#1992019/05/20 00:19
■愛称
愛称である「Zico」は「やせっぽち」の意味で、より原音に近い表記をすればズィーク ([ˈziku]) となる。

ブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ「白いペレ」とも呼ばれていた。また、長く選手として在籍したフラメンゴのホームスタジアムエスタジオ・ド・マラカナンの名称から「マラカナンの英雄」とも謳われた。

幼少時代に兄が所属するチームが得点する度に雄鶏(galo ガーロ)の掛け声(cocorecoo!)をしていた事から愛称は「ガリーニョ・デ・キンチーノ」(キンチーノ地区の雄鶏小僧)と呼ばれた。サッカーを目指した華奢で小柄なアルトゥール少年は周囲から「アルトゥルジーニョ」と呼ばれ、アルトゥールズィッコ(Arturzico)となり、最後は語尾の「ZICO」だけとなり以後定着している。フラメンゴ時代やブラジル代表時代、また鹿島アントラーズ時代の選手、親しい関係者間では「ガーロ」の愛称で呼ばれている。

フェネルバフチェ監督時代は、ファンから本名のアルトゥールと同じ綴りであるアーサー王伝説から「アーサー王(King Arthur)」と呼ばれていた。

[匿名さん]

#2002019/05/20 00:20
■フラメンゴ

1967年、14歳の時にブラジル・リオデジャネイロのフラメンゴのユースチームのテストに合格し加入。加入当初はテクニックは通用するが身長1m50cm、体重30kgの「やせっぽち」な体躯であることが致命的になり、思春期が終わり骨の成長が遅くなるのを待ってジーコの肉体改造計画がチームスタッフにより立てられた。その計画により筋トレとホルモン注射などを効率よく行なった結果、計画は成功。兄二人の教えもありトレーニングメニューを次々と消化し、競り合いに負けない強靱な体格を手に入れた(サイボーグと比喩されたことも)。その後、ユースチームで116試合81得点という記録を残すと1971年にジーコはフラメンゴのトップチームに昇格した。前年、現夫人となるサンドラ(エドゥの妻の妹)と出会い交際開始。4年後の1975年、結婚の目標だったアパートを購入しサンドラと結婚。

フラメンゴでは、10年以上に渡って在籍し中心選手としてプレーし、コパ・リベルタドーレス1981やトヨタカップ、4度のブラジル全国選手権(1980年、1982年、1983年、1987年)で優勝した。コパ・リベルタドーレス1981では、ジュニオール、ヌーネス、アジーリオ、バロニーニョ、レアンドロ、アンドラーデ、モーゼルらと共に得点を量産し、正確なパスでフラメンゴ黄金期を築いた。

[匿名さん]

#2012019/05/20 00:21
■ウディネーゼ

1983年にイタリアのウディネーゼへ移籍すると、ジーコ個人は1983-84シーズンに19得点をあげ得点ランキングの2位となった(20得点で得点王となったミシェル・プラティニより試合出場が4試合少ない)。これらの活躍によってサポーターの人気を集めたが、クラブとの間で契約問題で揉め、1984-85シーズンを最後にイタリアを去ることとなった。また、インテルへの移籍話もあったが上手く交渉がまとまらず実現しなかった。ジーコ自身インテルへの移籍に非常に乗り気だったので残念だったと語っている。

[匿名さん]

#2022019/05/20 00:22
■ブラジル代表

1976年にブラジル代表に初選出され、FIFAワールドカップへは1978年、1982年、1986年の3大会に出場している

初のワールドカップ出場となった1978年のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では、初戦のスウェーデン戦で先発出場。終了間際のコーナーキックからの得点が取り消される不運(ウェールズ人主審のクライブ・トーマスはジーコがシュート体勢に入る直前、ボールが空中にある状態で試合終了の笛を吹いたと主張。)や監督との確執もあって不本意な大会となった。

1982年のFIFAワールドカップ・スペイン大会では名将テレ・サンタナ監督の下でソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾと共に「黄金のカルテット」(クワトロ・オーメンジ・オロ)を形成。技巧的なパスワークと攻撃力で優勝候補の大本命と目されたが、2次リーグ最終戦でのイタリア戦では、クラウディオ・ジェンティーレの執拗なマンマークにあう。5分にイタリアのパオロ・ロッシに先制されたブラジルは12分、ハーフウェイラインを超えドリブルして来たソクラテスがジーコにスルーパスを出すと、ジーコはクラウディオ・ジェンティーレのマークをターンで外し、そのままゴールに走り込んだソクラテスにリターンのスルーパスを出し、同点ゴールをアシストした。

[匿名さん]

#2032019/05/20 00:23
ソクラテスの自陣ハーフウェイライン手前から始まる、40mをゆうに超える2人のワンツープレーと2本のスルーパスに、イギリスBBCのアナウンサー、ジョン・モトソンは「すごいぞ、ブラジルサッカーの哲学は!!」 (Thumbs up for Brazilian football philosophy!!) と評した。またモトソンはジェンティーレの激しいマークを、ボディコントロールとテクニックで外すジーコのターンに「おお、何てターンだ!」と評した。しかし2-2で迎えた75分、ブラジルはDFのミスからロッシに3点目を決められ、2次リーグ敗退(現在の規定でベスト8相当)、志半ばで大会を去った。しかし、この時に披露したサッカーは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられている。2002年以降自身が監督に就任した日本代表の中盤を称した「黄金のカルテット」はこのチームが語源である。

1986年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会では膝の負傷(国内リーグ戦の、対バングー戦で相手DFの悪質なタックルを受けた)によって数ヶ月間プレーを中断していた事もあって控えに回った。最後のワールドカップは準々決勝のフランス戦で交代出場直後にみせたスルーパスとそれによって獲得したPK失敗が最後の見せ場となり、現役を通じてワールドカップ制覇を成し遂げることは出来なかった。

[匿名さん]

#2042019/05/20 00:24
■短い引退

1989年3月27日にイタリアのウーディネでブラジル代表引退試合(対世界選抜)が行われ、同年12月のブラジル全国選手権、フルミネンセ戦がブラジル国内の公式戦最後の試合となった。フラメンゴ在籍中に731試合に出場し508得点の記録を残したが、得点はクラブ史上最多記録である。

翌1990年のブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領は、ジーコをスポーツ担当大臣に任命した。ジーコはおよそ1年間この政治的な任務を務めたが、1991年に将来のプロリーグ参加を表明していた日本サッカーリーグ2部の住友金属工業蹴球団(現、鹿島アントラーズ)のオファーを受けると大臣を辞任し、再び現役選手としてピッチに立つ事になった。

[匿名さん]

#2052019/05/20 00:26
[ 日本とジーコ ]
■初来日
1990年に住友金属に入団する前からトヨタカップで来日(1981年フラメンゴ)、MVP受賞など日本とは縁があった。現在は日本を「第二の故郷」とコメントするほどの親日家であり、来日した時は飛行場で必ず「タダイマ」と挨拶をする。大きな影響力を持つ母国ブラジルでは、そのおかげで日本がリスペクトされるようになり、「ジーコによって日本の印象は変わった」と言われている。
2011年6月に来日した際「長男の妻は日系人」であることを明かし、自身の孫が日本人の血を引くことに「日本との関係がさらに深くなるのは嬉しいこと」と語っている。

■日本語
夕刊紙やスポーツ記事などに「日本に何年もいるのに日本語を喋ろうとしない」「日本語を全く習得していない」と書かれることがある。
しかし実際は、本人はサッカー教室などで簡単な日本語の指示や受け答えをしている他、日本での自宅周辺の商店街、秋葉原の電化製品店、鹿嶋のショッピングモールなどで日本語を使って買い物を行う姿が市民にも目撃されている。
また、2006年開催のFIFAワールドカップの最終予選、対北朝鮮戦(無観客試合)において、日本語で「(相手DFの)ライン見て!ライン!」と指示したり、試合終了後、インタビュー直前に日本語でチームスタッフと談笑する模様が放送されている(その時テレビ局スタッフから声をかけられ、「え?何?」と答えてもいる)
日本サッカー協会・強化委員長の田嶋幸三によると「ジーコはほとんど日本語がわかるが、誤解を生むことを避けるため通訳を通している。政治の世界と同じ」ブラジルのビジネス誌「イスト・エ」のインタビューでは本人曰く「聞くのは出来るが早口だと無理、読み書きも無理」とのこと。ちなみに、中田英寿やミシェル・プラティニとはイタリア語で会話をしていた。

[匿名さん]

#2062019/05/20 00:27
■住友金属工業蹴球団

ジーコの入団について当時Jリーグ理事長だった川淵三郎は、「当初、紹介した古河電気工業サッカー部(現、ジェフユナイテッド市原・千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と語っている。ジーコ本人は日本からの打診に難渋していた所、ルイス・アントニオ高崎がプロ選手としての獲得という契約を出され、何ら具体的な連絡も無くビジネスの定石から逸脱した事後承諾のような状態に狼狽する。引退イベントも既に終えて年齢的に再び選手として走る気は無かったが、ゼロからプロサッカークラブを築くという話に魅力的なものを感じたジーコは住友金属と契約し来日。


ジーコが加入した当時の住金サッカー部は選手たちのアマチュア意識が抜けなかった。そのため夕食後に寮を抜け出してスナック菓子などのジャンクフードを買いこんでくる選手たちが多かった。ジーコは彼らにプロ意識を叩きこむため、毎晩選手寮の出入りを見張り、「プロ選手のカラダ造りに菓子は必要ない」と選手たちのジャンクフードを没収。当時、選手寮の玄関脇で飼っていた雌犬(名前はヒメ)にそれらを次々と食べさせていた。毎晩のようにジャンクフードを与えられていたヒメは丸々と太ってしまったが、その様子を見てジーコは「お前ら選手のおかげで、可愛かったヒメがこんなに太ってしまった」とまた選手たちを叱責した

[匿名さん]

#2072019/05/20 00:28
1991年の天皇杯予選では、当時日本大学1年生の岡野雅行(後に浦和レッズ加入)と対戦している。当時、日本大学サッカー部は大学リーグ二部であり、翌年からプロチームとなる住友金属としてはずっと格下であったため、ジーコはベンチスタートであった。しかし岡野雅行が2得点、他の選手も得点し前半終了時点で3-0で負けている状況に、ジーコが慌ててウォーミングアップを開始。後半最初からジーコ投入となった。岡野雅行の感想によると、「ジーコがピッチに出た途端、全ての空気が変わった。まずレフェリーの態度が変わった。明らかに相手(住金)のファウルでこちら(日大)のボールのはずなのに、判定は相手ボールだという。さあ、ジーコさん、フリーキックどうぞって。」結局、後半のジーコの活躍により住友金属が勝利したとのこと。(結果は日大4-5住金(前半 日大3-0住金、後半 日大1-5住金))

[匿名さん]

#2082019/05/20 00:29
■鹿島アントラーズ

鹿島では選手としてプレーするだけでなく、現場での全体への指導や試合中の采配も兼任し、カシマスタジアムの芝の長さも自ら決定していた。その結果、旧2部リーグの弱小チームを名実ともに日本を代表するサッカークラブに成長させることになるが、来日早々は有名ゲスト扱いで毎夜何らかの会合に呼ばれてはスター選手として持て成されていた。しかし当の本人は、練習場へは電車で通勤し、ロッカールームには所属選手らの汚れたシューズが散らかっていた際は、「こんな汚い所では寛げないよ、次もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と、おもむろに自分のシューズの手入れを始めるなどジーコのストイックな姿勢に周囲は唖然とする。また、自分から線審を買って出てジャッジとプレーの関連を指導するなど、周囲のお祭り騒ぎとは裏腹に本人は暗中模索で日本人のサッカーに対する姿勢の改善に苦心しており、練習後に「僕は一体何をしてるんだ」と自問し嘆息し、また翌日には溌剌と練習に参加して終わったらまた頭を抱えて呻くという日々を繰り返していた。

[匿名さん]

#2092019/05/20 00:30
1993年にJリーグが開幕した当初、この小さな町のクラブは横浜マリノスやヴェルディ川崎といった大都市のクラブに対し不利が予想されていた。ジーコはこの予想を覆し、チームが上位に食い込むには自分のプレーが活きて、且つ合致する選手がもう一人必要と考え、アルシンドを日本に呼び寄せた。そして迎えた開幕初戦、対名古屋グランパス戦でいきなりJリーグ初のハットトリックを決め5-0で勝利した。そしてその勢いのまま1stステージ制覇。チャンピオンシップでは準優勝の結果を残し日本のサッカー界を積極的に盛り上げた。その功績を称え、鹿島町(現、鹿嶋市)から表彰される。また鹿島アントラーズはジーコの下、初期黄金期を築きあげ、プロサッカークラブとして成功を収めた。

彼は、世界トップクラスの選手として戦術や組織はもちろん、サッカー選手としてのプライドや規律、プロ意識とはなにかということをチームメイトのみならず、日本サッカー全体に伝え続けることにより、短期間で日本のプロサッカーリーグを成功に導いた立役者となった。これによりマスコミやファンは「サッカーの神様」と賞賛した。[要出典]。 1994年第1ステージで現役を退きブラジルへ帰国したが、1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、これ以降も日本との関係を維持し続けた。

[匿名さん]

#2102019/05/20 00:32
□退場処分
フェアプレーが信条であるが、1994年1月に国立霞ヶ丘競技場で行われたJリーグチャンピオンシップ第2戦では三浦知良のPKの際にボールへつばを吐く非紳士的行為で退場(この日2枚目の警告)となり、物議を醸した(警告はキックの前にPAに進入したことに対してのみで、つば吐きは高田静夫主審が試合後に、重大な規律違反としてJリーグに報告している)。のちにジーコ本人は「Jリーグ初年度の優勝決定戦という歴史的な記念試合であのような行為をした事を申し訳なく思う」と反省の弁を語っている。愚行に至った理由としては相手チームに有利な開催地に不満があったことと、ビハインドの展開での不利な判定に対する憤りがあったと振り返っている。

[匿名さん]

#2112019/05/20 01:01
■愛車
1981年トヨタカップのMVP副賞で獲得した車を長期に渡り愛車にしている。ちなみに愛車は1981年型トヨタ・セリカで、1985年に製造中止され年月が経つ上、さらに当時ブラジルは外貨流出を防ぐために外国車(完成車)の輸入を禁止していたこともあって、現在南米における稼働車としては超がつく希少車。副賞の自動車が外交問題になりはしないかと大会関係者は心配したが、ジーコは「フィゲイレド大統領に電話するから」と言ってあっさり輸入許可を得て、この車を持ち帰った。
日本代表監督時は、日本代表のスポンサーに日産自動車が入っている関係で、同社が日本サッカー協会へ寄贈したシーマのステアリングを自ら握っていることもある。2006年からはフーガに変わった。なお、本人曰く例のセリカは2014年現在、今でも現役であるとのこと。

2015年、日本とブラジルの外交関係が樹立して120周年を迎えるにあたり、在リオデジャネイロ日本総領事館より親善大使に任命される。

[匿名さん]

#2122019/05/20 01:02
■その他

・1994年6月22日、当時の総理大臣羽田孜より、日本サッカー界への貢献を評価して内閣総理大臣顕彰が贈られた。2011年現在でも外国人個人として唯一の受賞者である。
通訳によると来日当初は周囲とのレベルの違い(当然他の選手はアマチュアであり、ジーコとは大きな落差があった)に、練習後車の中で「俺は何をやっているんだ…」と葛藤したかと思うと、翌日になると「さあ、頑張るぞ!」と張り切るという様子を繰り返していたという。

サッカーファン以外にも消費者金融「レイク」のコマーシャルに長年出演していたことで知られる。

・タバコ嫌いで知られ、日本代表の監督時代に、隠れて喫煙したスタッフを発見すると、「私は何事もわかっているんだぞ!」と激しく説教をしたという。以来、そのスタッフは、喫煙後の口臭剤が欠かせなくなったという。


・嫌いな日本食は、きつねうどん。「新・食わず嫌い王決定戦」の企画コンセプトは、「この食べ物の、ここが嫌い」であるため、実際は他の日本食同様に、好物であると思われる。


・茨城県鹿嶋市にあるショッピングセンターチェリオ1階には「ジーコ広場」があり、ジーコのブロンズ像が置かれている。普段は休憩スペースとして使われているが、営業時間内に鹿島アントラーズの試合がスカパー!で放送される場合は、無料で放映している。2004年2月8日には直筆の特大サイン、アントラーズに在籍したブラジル人選手のサイン寄せ書きを壁面に配置し、「ジーコ・ミニ・ミュージアム」と呼称し、当時日本代表監督だったジーコ本人が除幕を行うイベントを行った。

[匿名さん]

#2132019/05/27 03:32
加茂 周(かも しゅう、1939年10月29日 - )は、兵庫県芦屋市出身の元サッカー選手、サッカー指導者である。


■生年月日
1939年10月29日(79歳)
出身地
兵庫県芦屋市
身長
178cm

■選手情報

◇ポジション
FW

◇ユース
1961-1965
関西学院大学

◇クラブ
出場
(得点)
1965-1967
ヤンマーディーゼル
14
(1)

◇監督歴
1974-1989
日産自動車
1991-1994
全日空 / 横浜フリューゲルス
1994-1997
日本代表
1999-2000
京都パープルサンガ
2007-2009
関西学院大学

[匿名さん]

#2142019/05/27 03:34
関西学院大学卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)での選手生活を経て、1967年に指導者に転じた。1974年に日本人初のプロ契約監督として日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)の監督に就任。新興クラブを日本サッカーリーグ1部優勝1回、JSLカップ優勝1回、天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝3回の強豪に育てあげた。日産では監督という枠に収まらない、組織づくりや環境整備といったゼネラルマネージャー的な手腕も高い評価を受けた。またウィングだった木村和司をMFとして、MFだったロペスをFWに起用し覚醒させるなど、選手の適材適所を見抜きコンバートさせる眼にも長けていた。1993年度に横浜フリューゲルスで天皇杯に優勝した後、1994年12月から1997年10月までサッカー日本代表監督を務めたが、1998 FIFAワールドカップ・アジア最終予選の途中で更迭された。

長兄の加茂豊は毎日放送元社員でゴールキーパーとして1958年アジア大会で日本代表に選出された経験を持ち、弟の加茂建は加茂商事(サッカーショップ加茂を展開、傘下にジャパン・スポーツ・プロモーション、ソル・スポーツマネージメント)の社長である。


■選手時代

兵庫県立芦屋高等学校入学後、上級生から薦められるままにサッカー部に入部する。兄の豊はすでに日本代表にも選ばれる有名な学生サッカー選手だったが、周はまだサッカー経験はなかった。芦屋高校ではサッカーに明るい指導者がおらず、生徒たちが自分たちで練習メニューや戦術を考え、遠征の手配を行うような環境だった。

[匿名さん]

#2152019/05/27 03:36
浪人生活を経て、1960年に関西学院大学英文科に入学。入学当初はサッカー部に所属していなかったが、高校時代の2年先輩にあたる李昌碩(関西学院大学を経て、当時は関西学院大学大学院生)に説得され、2年生からサッカー部に入部する。大学では「四年まで、ずっと一軍の最後という感じで、出たり出なかったり」で「ついにレギュラーになることはできなかった」という。

大学を卒業した1964年、関学サッカー部の先輩である安達貞至に誘いを受けて、ヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)に入団。1965年に日本サッカーリーグが発足すると、1966年まで2シーズンのあいだ同リーグでもプレーし、14試合出場1ゴールを記録している。社業では貿易部に勤務していた。


■指導者時代

◇ヤンマーディーゼルコーチ

1967年、ヤンマーディーゼルサッカー部は釜本邦茂を始めとする多くの新人を迎えるのに合わせるようにスタッフ陣も刷新され、それまで主力選手だった鬼武健二が選手兼監督、加茂がコーチ、安達貞至がマネージャーに転じた。加茂は1972年まで鬼武の下でヤンマーディーゼルのコーチを務めた。

1969年、デットマール・クラマーがスクールマスターを務める3ヵ月間におよぶFIFAコーチングスクールを受講する。1970年、配属されていた貿易部が東京に移転したが、加茂は特別に大阪に残され、サッカーだけに専念できる環境が用意された。1972年、ヤンマーは同シーズンのJSL1部で初優勝を飾った。鬼武は同シーズン限りで監督を退いて、加茂を後任に据える構想を持っていたが、加茂は「釜本の存在が大きくなりすぎて、自分の考えるサッカーをこれ以上進めていくのはむずかしいだろう」と判断してヤンマーを離れた。

[匿名さん]

#2162019/05/27 03:37
◇日産自動車

1974年、日本人の指導者として初めてとなるプロ契約監督として日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)の監督に就任。クラブを日本サッカーリーグの常勝軍団にし、木村和司、水沼貴史、金田喜稔などが輩出した。日産は1972年に創部されたばかりで、加茂の監督就任当初は神奈川県リーグに所属していたが、1977年にJSL2部、1979年にJSL1部に昇格した。1981年に一度JSL2部に降格したものの、1年で1部に復帰。1983年、1984年と2年連続でJSL1部準優勝、1983年度の天皇杯では優勝した。

1984年、日本代表がロサンゼルスオリンピック予選で敗退したことにより、日本サッカー協会では森孝慈の後任として加茂を代表監督とする話が浮上した。加茂自身も代表監督就任に乗り気で、就任に備えて同年秋ごろまでには日産の総監督という立場に退き、鈴木保が後任に就いた。しかし同年10月の日本サッカー協会の会議によって、一転して森の留任が決まった。

1985年12月に日産の監督に再び就任。就任直後に行われた第65回天皇杯にて、決勝でフジタを下して2回目の優勝を果たす。長谷川健太や元ブラジル代表のオスカーを獲得し、1988-89シーズンはJSL1部、天皇杯、JSLカップの三冠を達成した。リーグ戦ではJSL新記録となる開幕11連勝により全勝で前期を折り返し、カップ戦の勝利を含めると連勝数は21にも及んだ。シーズンが終わると、加茂はオスカーを次の監督に指名し、自身は顧問という役職に転じた

[匿名さん]

#2172019/05/27 03:38
◇全日空/横浜フリューゲルス

1990年6月に全日空サッカークラブ(1992年からプロクラブ化して横浜フリューゲルス)の顧問に就任、1991-92シーズンから監督に就任した。加茂はコパ・アメリカ1989でのセバスティアン・ラザロニ率いるブラジル代表や当時隆盛を誇ったACミランのような、チーム全体をコンパクトに保ち相手にプレッシャーをかける戦術に大きく影響を受け、全日空でもそのようなサッカーを志向した。この戦術は、スロベニア人コーチのズデンコ・ベルデニックの発案をもとに、加茂が英語風に直した「ゾーンプレス」と名付けられた。ベルデニックは練習プログラムを作成するなど、ゾーンプレスを理論面から支えた。

1994年1月、第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝にて、鹿島アントラーズを延長の末に下して優勝に導いた。


◇日本代表

1994年12月1日より11ヵ月の契約期間で日本代表の監督に就任。前任のパウロ・ロベルト・ファルカン時代に「コミュニケーション不足」が問題になったことから、日本人の加茂に白羽の矢が立った。日本代表でも横浜フリューゲルス時代同様に、ゾーンプレスで追い込んで、素早く攻撃に転じるサッカーを浸透させようとした。就任直後の1995年1月にインターコンチネンタル選手権があり、チーム構築の時間的余裕がないこともあり、まず当初はファルカン時代には代表から外されていたラモス瑠偉を始めとした経験豊富なベテラン選手を中心に編成し、その後、徐々に若手選手へと入れ替えていった。

[匿名さん]

#2182019/05/27 03:39
1995年11月の契約満了を前にして、加藤久を委員長とする日本サッカー協会 (JFA) 強化委員会は「加茂続投はベストの選択ではない」と判断し、代わりにヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)監督のネルシーニョが適任という結論を導いた。加茂も一時は退任を覚悟して横浜F復帰の話が進んでいたが、JFA幹部会の判断により土壇場で加茂の契約延長が決まった。JFA会長の長沼健は会見の席で「これでワールドカップに出場できなかったら、責任を取って私が辞める」とコメントした。

1996年12月のAFCアジアカップ1996では、グループステージを3戦全勝で突破したが、準々決勝でクウェート代表に0-2で敗れた。加茂はこのアジアカップでは優勝に主眼を置かず、テスト的な場と位置づけていたが、クウェート代表戦での弱点を突かれた負け方から、協会内部では加茂に対する不信感が広がる結果になった。

1997年9月に始まった1998 FIFAワールドカップ・アジア最終予選では、初戦のウズベキスタン代表戦に勝利、アウェイのアラブ首長国連邦代表戦に引き分けた後、3試合目となったホームの韓国代表戦にて、フォワードに替えてディフェンダーを投入する戦術的交代が裏目に出て(ある選手のマークをさせるためであったが当選手は既に交代していた)1-2の逆転負けを喫したことから、メディアやファンの間で加茂批判の声が高まった。続く10月4日のアウェイのカザフスタン代表戦でも引き分けに終わったことから、直後現地で更迭されコーチの岡田武史が監督に昇格した。予選途中での監督解任は、日本代表の歴史上初めてのことだった。

[匿名さん]

#2192019/05/27 03:40
■その後

1999年にアルビレックス新潟のアドバイザーに就任。1999年7月より京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)の監督に就任した。契約期間は2002年1月末までの2年7ヵ月だったが、2000年6月に成績不振により監督を解任された。

2001年より尚美学園大学サッカー部総監督、2003年より大阪学院大学サッカー部総監督、2007年より関西学院大学体育会サッカー部の監督を歴任。2009年には関学大を11年ぶりの関西学生リーグ優勝に導いた。2010年より関西学院大学サッカー部の総監督に就任。

また、日本放送協会(NHK)とGAORA(FCバイエルン・ミュンヘンTV)でサッカー解説を担当している。

2017年8月、日本サッカー殿堂入りが発表された。

[匿名さん]

#2202019/05/29 13:57
[ 2019年05月29日 ]

✴ 松江シティフットボールクラブ ✴

◇6月2日(日)ヴィアティン三重戦 ホームゲーム情報◇


いつも松江シティFCへの温かい応援、誠にありがとうございます。

2019年 6月2日(日)に 『 第21回日本フットボールリーグ 第9節 vs ヴィアティン三重 』 が松江市営陸上競技場にて行われます。

【第21回日本フットボールリーグ 第9節 vs ヴィアティン三重】
日  程:2019年6月2日(日)
会  場:松江市営陸上競技場(島根県松江市上乃木10丁目4-1)
対戦相手:ヴィアティン三重
開  始:13:00キックオフ


チケット価格(全席自由)


大人
前売り:800円(税込)  当日:1,000円(税込)
小人(高校生以下)
前売り:400円(税込)  当日:500円(税込)

試合前日までのご購入の場合は前売り価格での販売を行います。
また、試合当日は会場にてチケットの販売を行います。※当日料金での販売となります

※島根県内の小学生以下のお子さまには「ふるさとしまね こどもえがお応援パス」を発行いたします

[匿名さん]


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