ボストン・マラソンに川内が出場
アジア大会覇者の井上も
2019/1/11 12:01
©一般社団法人共同通信社
川内優輝
ボストン・マラソンの主催者は10日、招待選手を発表し、日本勢は男子で前回大会を制した川内優輝(埼玉県庁)、昨年のジャカルタ・アジア大会覇者の井上大仁(MHPS)らが名を連ねた。昨年の別府大分毎日マラソン2位の園田隼(黒崎播磨)も出場。レースは4月15日に行われる。(共同)
This story is produced by 共同通信
[匿名さん]
■たった4発で1日も過ごせず
ちなみに大和型が撃沈されたときの被弾数を見ると、「大和」の被弾数は爆弾7発、魚雷10発(日本の戦闘詳報による。アメリカ軍戦略調査団資料では爆弾5発、魚雷10発)、「武蔵」の被弾数は爆弾17発、魚雷20発(記録員戦死のため、後日生存者など関係者の証言から作成された戦闘詳報による。アメリカ軍資料では爆弾44発、魚雷25発)とされています。
しかし「信濃」は、戦闘艦としては不完全でした。船体をいくつかに区分し浸水や火災の際、防火防水扉を閉鎖することでその区画だけで被害をくい止められるようにした「水密区画」は未完成で隙間だらけ、乗員も乗艦してから日が浅く、各装置の操作に不慣れで浸水を抑えることができません。水蒸気を水に戻す復水器が停止してボイラー用の真水が欠乏したため、ボイラーの運転が止まり、午前8時には完全に動力、電力を喪失してしまいます。護衛駆逐艦による曳航作業にも失敗し、浸水と傾斜はどんどん進行。午前10時37分に総員退艦発令、10時55分(57分説もあり)に転覆、艦尾から沈没しました。
こうして大和型末っ子の世界最強最大になるはずだった重装甲空母「信濃」は、竣工から10日、出航からわずか22時間で、たった4発の魚雷により失われたのです。正確な沈没地点は2019年現在も分かっていません。
「信濃」を撃沈した「アーチャーフィッシュ」は戦争を生き延び、1945(昭和20)年9月2日に東京湾の米戦艦「ミズーリ」艦上にて行われた日本降伏文書調印式の際には、同じ東京湾内に停泊していたといいます。また1963(昭和38)年には、「信濃」が建造された横須賀の工廠にも入渠しています。退役したのは就役から25年後の、1968(昭和43)年のことでした。
月刊PANZER編集部
秘密だらけ大和型3番艦「信濃」の不運 WW2最大最強のはずの空母 なぜ22時間で沈んだ?
[匿名さん]