>>755
違うな。
勝友の副長→岸本の副長の流れは合っているが、茂雄のオッサンは門田組には属していない。
豪友会と最初に縁を持ったのは井上組であり、そこで若頭をしていた時に本部の直参に昇格している。
その後、須崎市部支部長をしていた時に、初代の神戸の直参に上れる様な連合体を作れの指示のもと、二代目と古地のオッサンに口説かれ勝友連合入りし副長、解散後に岸本組に移籍し副長を務めていた。
その時は三代目の時代で、池本に取っては目の上のたんこぶだった岸本のオッサンを排除する為に下手な絵を描き岸本のオッサンと茂雄のオッサンが揉める事となり、茂雄のオッサンの若衆の香川県の三井が岸本のオッサン宅にカチ込みを駆けた事件が発生し、それに被せるかの様に山克組の長岡がカチ込む事件が発生。
三井の件は事件にならなかったが、長岡の件は事件になり8年ぐらい徳島刑務所に務めていた。
その後岸本のオッサンは自害している。
茂雄のオッサンは内輪揉めをしたという理由で破門になったが、その時に一年以内に復縁さすという密約があったにも関わらず池本は約束を守らず2年ぐらい破門状態だった。
事情を知っていた当時若頭代行をしていた久武のオッサンが間に入り復縁。
その後成岡や高橋光昭らと大龍会を結成し松山に進出。
それまで主流派だった茂雄のオッサンはその後は反主流派に転身。
当時いた者の中で現在本部に居るのは、土居のヤッサンぐらい。
岸本のオッサンと茂雄のオッサンが揉めたのは、池本の策略だが、山克のオッサンが茂雄のオッサンに泣きついたのが大きな要因。