天台の五時の教判の時代区分には大変多くの
矛盾点が指摘される。
①華厳経の中に祇園精舎が出てくる。
成道後21日間に説かれたはずの
華厳経の中に祇園精舎が出てくるのである。
祇園精舎といえば、強信であったギッコドク園長者が
釈尊に寺を寄進しようとした。
ところが、その土地が祇多太子の所有であり
「土地に黄金を敷き詰めなければ譲れぬ」と
破格の条件を出してきた。
長者は驚かず、土地を金貨で埋め尽くそうとした。
その気概に驚いた祇多太子が、
共に寄進されたのが祇園精舎である。
そんな経緯で建てられた祇園精舎が21日間で 建てられる筈がない。
②華厳経には舎利弗、目蓮というお弟子が出てくる。
舎利弗・目蓮といえば、釈迦十大弟子のトップに
挙げられる両人である。
しかし、彼らが釈迦如来にお会いするのは
成仏後、7〜8年ごろである。
当然21日間に出てくるはずがない。
③阿含経の中に釈尊入滅の相が説かれている。
阿含経といえば華厳経の後に説かれたお経だと
いっている。
ところが阿含経の中に80歳で入滅される
釈尊のお姿が説かれてあるのだから不思議である。これからも分るように釈迦一代の教えを時代区分する
こと自体が問題なのである。
経典はそのような構成になっていないからである。
当たり前だ。釈迦は毎回 同じ人に教えを説いた前提でしか理窟が合わない。