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🕌 宗教総合


No.5579517
合計:
#220
>>219
宰相阿日郷が大石寺を出奔したとされる当時の記録は有りません。『出奔』したと主張するなら、その証拠を提示してください。
それどころか、小泉蓮蔵坊、大坊の主たる経営を日誠と共同して奉行していた資料や当時の南條家文書は保田妙本寺に現存しています。
日蓮正宗では大石寺第4代は日道としていますが、当時の寄進状には日道の名前はありません。
大坊な小泉蓮蔵坊に関して日道が関与した形跡はなく、僅かに陸前三迫の土地の安堵を記した文書のみです。
要するに富士門流に於いても公文書関係でも日道が大石寺の法灯を継承した形跡は皆無です。
当時、宰相阿日郷は富士方面から房州方面に亘る広範な活動をしていた為、上野と吉濱を頻繁に往復し、かつ京都朝廷にも天奏しており、天皇真翰も日郷宛に下されています。
ところで、大石寺には天皇真翰はあるのでしょうか?

貴方の感情的な主張は多分に日蓮正宗の根拠のない『お物語』を盲信したものです。
大石寺と小泉、保田の間に騒動が起きるのは日郷、日道の遷化の後、地頭が南條から興津に交代した後の、日道の弟子の日行と日郷の弟子南條日伝との争議からであって、地頭の興津氏が日行派に軍配をあげたので、恰も日道と日郷の間に争議があったかのように宗史を改竄したのです。
所謂、『郷道論争』は作り話ですよ。


[ 匿名さん ]
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