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🕌 宗教総合


No.5579517
合計:
#226
>>225
宰相阿日郷は大坊と小泉蓮蔵坊の座主でしたが、日行が勝訴して大石寺4代になったの、でやむ無く日伝は吉濱の法華堂を根拠地としたのが今の保田妙本寺です。
その事情は重須の大衆も周知していましたから、その後の石山と小泉吉濱の係争には悉く保田妙本寺と小泉久遠寺に見方しています。
如何にも日郷が存命中から保田妙本寺を根拠地にしていたかのごとく言うのは、なにがなんでも、日郷を傍流にしたいがための『お物語』です。
日郷が大石寺から消えたのは『事実』と主張するなら、その証拠を提示して貰いましょう。
また、万年救護の大本尊は確かに日目から日郷に譲られています。それは南條家文書にあり、国立大学合同調査により、間違いなく当時の真筆であることが証明されています。にもかかわらず、日蓮正宗が嘘をつき通すというなら、それ以上の証拠を提示して証明すべきです。
時の天皇が日郷を主座と認めた勅書を下している以上は対外的にも日郷が日目の正嫡だったことは動かし難い事実なのです。
確かに富士日照の代に保田は正宗に所属しましたが、それは当時の疲弊した経済的事情があったためです。
それは戦後の大石寺や諸山も大方は困窮状態にありましたから、背に腹は代えられない、と言ったところでしょう。
まあ、戸田城聖にたらしこまれたのだと思います。
しかし、富士日照も内心は石山傘下となることが本意だったわけではなく、それは古参の万年講の方々の証言からも確かです。


[ 匿名さん ]
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