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🕌 宗教総合


No.5579517
合計:
#276
今の大石寺の由緒は九代南条日有までしか遡れません。
今の塔中形式の大石寺は十二代日鎮の代からです。
そのころから北山あたりでも同様になりました。
日鎮は京都下りの皇孫で日有が稚児貫主候補として石山に招いた人物です。
莫大な持参金を持っての東くだりだったわけで最古の大石寺境内図(日主代)の大石寺は、それから始まるわけです。
日有は南条の末裔として、大石寺復興に尽力した人であり、稚児貫主の擁立に際して教学の確立に当時の日蓮宗学のメッカだった京都から住本寺系統の学僧を招いたりもしています。左京阿日教なんかそれですね。
また、化儀の体裁を統一したりと、理路整然を伽藍に具現化したのが京都禅寺風の今に伝わる大石寺伽藍です。
しかし、度重なる火災で伽藍も日有のコレクションも灰塵に帰し、或いは散逸して江戸時代初期には壊滅廃寺の憂き目にあっています。 
それを再興した人物こそ、阿波徳島城主夫人にして徳川家康の曾孫にあたる敬台院殿です。
当初、幕府は大石寺再興を許しませんでしたが、敬台院の将軍家光への懇願や寺社奉行本多弾正少弼への働きかけもあり、幕府大名の香華所(典礼所)として許可が下り、当初は寺号も許されない有り様でしたが、これも敬台院のスーパーネゴシエーションによって許されたのです。
今に伝わる大石寺の重宝?は言わば敬台院コレクションです。
今の大石寺は日有の大石寺よりかなり北にずれています。
今の二天門のあたりに日鎮再興の本堂、御影堂、天拝堂がありました。
今の大石寺の開山は敬台院日詔大姉であらせられまする。


[ 匿名さん ]
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