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🕌 宗教総合


No.5579517
合計:
#408
>>407
当時(室町中期)の日蓮宗学の中心地は京都でした。
六老僧の流れを汲む洛中諸山は我こそは日蓮の正嫡なりと主張して、権威づけに躍起になっていたのです。
そこで白羽の矢が当たったのが日蓮の直弟子の日興でした。なぜなら日蓮滅後の直後から日蓮遺文を書写したのが日興だからです。
だから真蹟があっても、数多の時代写本が遺されているのです。
その全てが日興書写ですからね。ところが六老僧の遺文については同時代の写本はありませんね。
曾存の確認がとれません。たがら、その点でいうと>>406さんの指摘は当たっています。
そうですよ。なまじ日蓮遺文は日興が数多の写本を残し現存しているから自由は利かないが、日興遺文に関しては仮託して作り放題でしょう。
事実、日興のものとされる就註法華経(御義口伝)なんかは、その最たるものです。
徐氏の科註様で書かれていますが、日興在世の頃には一般化されていませんからね。
日興遺文に関しては日興上人全集に於ける評価を覆すのは難しいでしょう。
貴方が指摘する日蓮正宗の言い分は笑えますね。
なら、誰も日蓮真蹟と疑わない五大部を日興は写本したんでしょうね?
勿論、写本は文献保存が目的ですが、真蹟からの時代書写自体が曾てあったものでなければ意味をなしません。


[ 匿名さん ]
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