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🕌 宗教総合


No.5579517
合計:
#426
>>425
附属の書類は、殆どが相続権に関するものです。
数多の宗派の寺社領地を確定し朱印状を幕府が発行しているので、それに纏わる文書だった可能性はありますね。
文面までは記録されていないので、関係者の糠喜びには理解できないものがありますが?
数多の相続関係文書を大御所徳川家康が逐一吟味する筈はなく、おそらく家康は、徳川御三家の生母で身延山久遠寺を熱心に信仰していた、お万の方が念頭にあった為に、格別に目通しした可能性はあります。
異例だから特記したのでしょう。
回答しますが、真偽未決の文献を、真書であると偽れば死罪になるでしょうが、真偽未決を前提に家康に見せたのであれば、お咎めを受けることはないでしょう。
恐らく、日蓮は自身の死後についての何らかの指示を生前にだしていて、身延山の管理については、檀那の波木井実長が日興の所縁であることから、事後を託した文書が有っても何ら不思議ではありません。
しかし、それは身延山についてのことであり、所謂 「釈尊五十年の説法」云々に関しては完全に後世の創作神話でしょう。
日蓮が武蔵国池上に到着した頃には筆も持てない状態であることは、他ならね日興が代筆した「波木井殿御報」に明らかですから。
日興は他の五人の高弟と墓所輪番のことや、身延不参のことなどで対立し、檀那の波木井実長とも不仲となり、身延山を退出していますから、その時点で管理放棄したと見なされるのです。
日興は一時的確かに身延山の管理者でしたので、真偽の程は定かではないにしても、日蓮筆と伝わるものが存在した可能性はあります。


[ 匿名さん ]
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