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No.6958444
合計:
#15
>>14続き
こうして第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲ったが、1906年5月、ロシア政府はストルイピンを首相とする新政府を構成した。

このストルイピンという人物は、民族主義者・国家主義者であったため、強固な反ユダヤ的な政策をとって革命運動を鎮圧していった(そのためレーニンもジュネーブに亡命している)。ストルイピンは「強いロシアをつくろう」というスローガンを掲げて、今日のロシアの「改革」とはまったく異なる、ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を進めていった。
しかし残念なことに、1911年9月、ストルイピン首相は暗殺されてしまった。ストルイピンがキエフに行った際に、ニコライ2世とともに劇場でオペラを見ていたときのことである。彼の席の近くにボグロフというユダヤ人がいた。彼は反体制派、社会革命党の党員で政府の警察のエージェントでもあった。彼はストルイピンの席近くへやって来るや、ニコライ2世の面前で、ピストルを2発、ストルイピンめがけて撃ったのである。
ストルイピンが亡くなったことによって、ロシア人によるロシア人のための改革も終わってしまった。

その頃、ロシアの資本主義経済はかなり強くなっていた。すでに、世界の資本主義諸国の中でも、決して引けをとることのない資本主義国家になっていた。当時のロシアの経済成長率は11〜15%で人々の生活水準も高かった。それは10月革命以前のことである。


[ 匿名さん ]
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