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🍎 青森雑談総合


No.11707937
合計:
#841
東北地方の住民が半減したという天明の飢饉は天明三年(一七八三)から八年まで、かつてない惨状を呈し、津軽藩内では人口二十四万人のうち、八万人が餓死、四万人が逃散し、その人口が半減するという全く悲惨なものであった。特に同三年、四年に被害が集中し、同八年にいたってようやく七分作となった。三月は寒気が強く、五月には霖雨(りんう)-長雨と冷気-でやませが強く、夏にいたっても寒く遂に作物は稔結せず、平成五年と同じような状況となった。そのため住民は山菜の根を掘り糊口をしのいでいたが、翌年春までには全く食糧がなくなり、遂には犬、猫から、果 ては人肉相喰むというかつてない惨事となり、ばたばたと死んでいった人が多い。

 天明五年西津軽地方から津軽平野に入った秋田の旅行者で博学者でもある菅江真澄は、その著『そとが浜風』では村に入ると入口に餓死者の亡骸(なきがら)がうず高く積み上げられていて、正にこの世の地獄であったというし、夜村中を歩いていると、死骸を踏み、その凄惨さは正に筆舌に尽くし難いと述べており、蝦夷地に渡れば何とか食えるだろうと、三厩や小泊等の湊場に集まる人達は、長蛇の列を造っていたという。


[ 匿名さん ]
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