天明の大飢饉は江戸中期に起こった1782年から1788年の6年間にも及んだ飢饉で、江戸四大飢饉の中でも最大の被害であった。
天明の大飢饉は悪天候などの天災に加えて、1783年には岩木山と浅間山が立て続けに噴火し、全国各地に火山灰を降らせ、日射量を減少させるなどコメの育成を阻害した。
被害が甚大であったと伝えられるのは陸奥の地域で、死者は盛岡藩で7万5千人以上、八戸藩では3万人が餓死したのちに伝染病が蔓延し、さらに数千人が亡くなったといわれています。
もっとも悲惨だったのは弘前藩で、死者は10万人以上、逃亡者も含めると藩の半分以上もの人を失いました。