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No.10567008
合計:
#21
豊臣秀吉天下時代に朝鮮出兵があったものの、徳川軍は文禄の役と慶長の役どちらも日本軍、日本水軍としても参軍出兵していない。
理由は豊臣政権において家康は丁重家臣だったため並びに両家における政略結婚により家康は秀吉の義理の弟だったからである。
その他に>>10に上述したとおり、李氏朝鮮時代に存在した李氏朝鮮氏族の一派である徳川李氏と日本の松平家・徳川家が同胞であることも鑑みられる。
現に松平家・徳川家は島津家であるが、薩摩藩薩摩島津氏の朝鮮出兵日本水軍の島津軍の主導者である島津義弘薩摩藩主と李氏朝鮮軍李舜臣主導者(李家と島津家の流)とも同胞であり、慶長の役の最期の海戦である盧粱海戦で李舜臣は参軍しておらず、李舜臣のライバルであった元均をリーダーに擁し元均はこの戦で命を落としている。
といったエピソードも存在する。

従って、家康率いる徳川軍は人材と資金を留保することが可能であったため、関ヶ原の戦いで義兄の豊臣秀吉率いる豊臣軍を倒し、後に松平家康(元松平信康、元松平元信、元松平竹千代)は松平氏、尾張松平氏を徳川氏、徳川家に改称し徳川家康として天下人征夷大将軍に為れたのであった。


[ 匿名さん ]
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