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🕌 宗教総合


No.3944547
合計:
#887
>>885
日有の財力は京都の大旦那衆が支えていたのです

寺を経営するには金が不可欠です。

皇室出身の日鎮を稚児貫首として迎えることで大石寺は本格的な塔頭形式の体裁を整えた寺院になることが出来たのです。
後の日主の代の図面が現存していますね。
何故に莫大な金が集まったのかは室町期の京都の町衆の豊かな経済力と皇室ゆかりの稚児を迎えたことにより、その町衆からの莫大な寄進が集まったためですね。
地元の小領主らの財力では無理だったでしょう。

この頃なら金のかかる板本尊等も造立が可能だったろうと思います。

しかし室町後期から戦国乱世ですから、大石寺はまた疲弊したのです。

安土桃山時代から江戸初期までは京都要寺の傘下に入って細々と命脈を維持していたようですが、それも大火で伽藍を悉く焼失し、事実上は廃寺状態てした。

そこで、敬台院が要法寺の日精を宥子に迎えて再建したのが今の大石寺です。
幕府は元の場所に伽藍再興を許さず、今の御影堂は室町期の墓の上に建っています。
朱印状にはあくまでも敬台院所縁の大名の菩提所としての地位しか付与されていません。
この事実は敬台院や寺社奉行本多弾正少弼の書簡に確かめられます。
幕府は新しい寺として建設許可をしたのですが敬台院の懇願を将軍家光が容れて大石寺の寺号が許されているのです。


[ 匿名さん ]
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