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🕌 宗教総合


No.3944547
合計:
#890
>>889
日蓮の晩年には身延の教団は貧窮しており、養えない弟子を在家に願って還俗させているくらいですからあてにはなりませんね。
加えて未曾有の凶作で米価が高騰し、天候不良で塩の値段も高騰していました。
日蓮の在世中に本堂の本尊を造立するだけの財力は無かったと考えるべきでしょう。
紙や布、炭等も不足していたようです。
それでも南部公の庇護の元、初期の身延は命脈を保っていました。
もしも日蓮が存命の内に板本尊造立があったのならば願主は南部実長公でなければならないことは当時の常識です。
当時の南部氏の領地経営も相当に苦しかったようです。
日興が筆録した『波木井殿御報』には南部公への並々ならぬ感謝が克明に記されています。
日興に実長公を恨む筋合い早ければないのですが日興の弟子たちが南部公を悪者に仕立てたのは日興の身延離山を正当化する目的があったと考える方が自然ですね。
あの『原殿書』は京都要法寺関係の文書であり室町期の作の可能性大ですから。


[ 匿名さん ]
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