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📿 創価学会


No.9028637
#268
義和団事件・北清事変


 1898年、山東省から起きた「義和団」を名乗る集団が、ドイツの教会や中国人キリスト教信者らを襲撃し、その後天津や北京に大集団となって押し寄せ、「扶清滅洋」(ふしんめつよう。弱体化した清政府を助け、欧米・日本など外国勢力を排斥する)を掲げて外国勢力を攻撃した。

 1900年6月には、清政府がこの義和団を支持して欧米諸国に宣戦を布告して、「北清事変」となった。しかし、欧米諸国と日本の連合軍が出兵して、義和団は鎮圧され、清は降伏した。そして「北京議定書」を締結され、多額の賠償金と北京・天津間への外国勢力の軍隊の駐留権を認めさせられたのであった。



 1858年の「第二次アヘン戦争」に敗れた清は「天津条約」を結ばされ、列強にキリスト教の内地布教権を認めることになった。イギリス、フランスに中国進出で後れを取ったドイツは、まだ他国の影響力の無かった山東省に利権を求め、宣教師も奥深く入って教会を建築し、信者を増やしていった。

 1897年には山東省の南西部の曹州という町で、新たに信者となった人々が地元の伝統的な祠の祭りに資金を出さなくなったことを原因として、地元の反キリスト教の人々が教会を襲い神父を2人殺す事件(曹州教案)が起きた。ドイツはこれを口実に出兵して膠州湾の租借と鉄道敷設権、鉱山開発権、さらなる教会の建設権などを得た。このようなドイツの強圧的姿勢は、人々の反感を助長し、現地にあった様々な武術団体、土着信仰団体などが「義和団」とよばれる武力組織となっていった。彼らは、「神がかると刀はおろか鉄砲の弾も身体を通さない。」と信じていたという。


[ 匿名さん ]
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