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🍙 新潟市雑談


No.11852736
合計:
#348
大化改新
律令国家成立と城柵官衙の建置
ヤマト王権は皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)の乙巳の変に始まる一連の国政改革(大化の改新)を画期に律令国家建設に向けての諸政策を進め、地方行政として国郡里制の整備、編戸制の実施、戸籍・計帳といった公文書の作成、班田収授法の実施、租庸調・雑徭などの徴税が全国へとおよんでいく[4][5]。

中央政府(朝廷)は税収の拡大を目的として東北経営を本格化させると、越後平野北半と仙台平野に相次いで城柵官衙を設置した[5]。『日本書紀』によると、日本海側では大化3年(647年)に越国渟足柵(現在の新潟県新潟市)、大化4年(648年)には磐舟柵(現在の新潟県村上市)が設置されている[原 2][原 3][6][5]。

『日本書紀』中には太平洋側の城柵設置を示す記事はないものの、郡山遺跡I期官衙(現在の仙台市太白区)が越国渟足柵に対応する陸奥国の城柵遺跡と考えられている[5]。また7世紀代に造営された柵として越国都岐沙羅柵や陸奥国優嗜曇柵が知られている[5]。

越後平野と仙台平野
7世紀代に城柵が造営された越後平野、仙台平野、米沢盆地といった地域ではエミシが反乱を起こしたことを伝える史料などは一切ない[5]。これらの地域は弥生時代以来の稲作農耕文化がそれなりに発展し、古墳時代前期より大型古墳の造営など古墳文化の昴揚もみられるため、もともと関東地方や中部地方以西の国造制施行地域に住む人々とあまり大きく変わらない農耕文化や信仰文化をもっていたと考えられる[5]。そのため近隣の城柵を拠点とした律令国家の支配を抵抗もなく受け容れ、やがて内国地域の社会・住人と区別しがたいほどに同化していった[5]。

大宝律令施行時点で越後平野、仙台平野、米沢盆地、山形盆地は律令国家の支配体制に組み込まれ、それらよりも北方の諸地域が「エミシ」の地と定められることとなった[5]。


[ 匿名さん ]
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