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🍙 新潟市雑談


No.4914535
合計:
#187
詳しい時期は不明だが、おそらく平安時代中期[1]から明治の神仏分離まで、月山は出羽三山の一角として修験の道場となっていた。なお、奈良時代末期に至るまで開山を裏付ける資料は発見できないが、平安時代になって初めて考慮を要する資料を見ることが出来る[6]。

この出羽三山の宗教勢力は次第に隆盛し、一大領国とも言うべき大勢力となって行った。このため戦国時代から安土桃山時代には、自勢力に取り込もうとする武藤氏、上杉氏、最上氏などの戦国武将達から干渉を受けた。特に最上義光は庄内平野へ侵攻するにあたり、しばしば月山を越えたため、兵卒により御室が荒らされたり、仏像や神宝が略奪されるなどした。このため羽黒山では、月山の西の覗(のぞき)にある洞穴に仏像や神宝を隠し、その秘密を守るため妻帯修験の重陽坊に一子相伝で管理させた[2]。しかし、その一方で、関ヶ原の戦い以後、庄内や由利を領有した最上義光は、出羽三山を懐柔するため羽黒山・月山の修理再建を行った[2]。その一つとして慶長6年(1601年)当社本宮の修復が行われている[2]。

江戸時代に入っても出羽三山は修験道の場として人々の信仰を集めた。元禄2年(1689年)には俳聖松尾芭蕉が出羽三山を訪れ、同年6月6日に月山へ登拝[7]しており、紀行文『おくのほそ道』には月山を詠んだ 「雲の峯 いくつ崩れて 月の山」 の句が残されている。[8]


[ 匿名さん ]
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