秀司らが吉田神祇官の傘下に入れば立場が安泰し堂々と商売が出来ると云う浅はかな考えで奈良取締役守屋筑前守に仲立ちを依頼したのは事実かもしれません。
守屋筑前守に依頼するのに其れなりの金が動いていたと考えても自然です。
山澤良治郎が守屋筑前守の親戚と云う事もあって山澤良治郎がパイプ役になったたと言われてますけど、それは眉唾物かもしれません。山澤は大きな規模の地主で大和神社の総代を勤めていたとも云われていますけど、それも眉唾物かもしれません。
秀司が慶應3年7月23日に吉田家の推挙された文書を添えて代官所に布教の許可願いを申請していますけど、その許可願いには天輪明神として十二神の神名が記載されてます。
その十二神の内の十神が後年の十柱の神です。
ようはその場しのぎや取り繕いがお得意な天理教のゼスチャーやと思います。