清原が天理に入学していたら1985年春PL学園vs天理のKK対決が実現していた。
桑田の誕生日が1日遅かったらKKコンビは存在せず池田が3連覇をしていたかもしれない。
1985年東北が甲西に勝っていたら清原vs佐々木の対決が実現していた。
1984年PLが取手二に勝っていたら不滅の3連覇を達成していた。
作新江川投手が高卒のままプロ入りしていたら軽く200勝していたかもしれない。
1989年夏に秋田経大付が帝京に勝っていたら深紅の優勝旗は白河の関を越えていた。
1979年星稜vs箕島、森川選手の落球が無ければ星稜が勝っていた。
1998年横浜vsPL、延長17回2死PLの失策が無ければ18回引き分け再試合になっていた。
1982年佐賀商vs木造、最終回死球が無ければ完全試合を達成していたかもしれない。
1984年法制一vs境、境打線が1点を取っていたら完全試合を達成していたかもしれない。
1987年1回戦、温品投手(徳山)の失策が無ければ徳山が勝っていた。
1990年春、北陽が新田に勝っていたら決勝は大阪決戦が実現していた。
1992年予選、宇治山田が三重に勝っていたら第1回大会以来の復活出場をしていた。
1996年奇跡のバックホームが無ければ熊本工が優勝していた。
2020年コロナが無ければ今頃は49代表が揃い抽選が行われていた。