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三重高校野球


No.9883727
合計:
#99
自身も、野球が大好きな球児だった。増渕の名前が広まったのは、埼玉の公立校である鷲宮高時代。「打倒私学」を胸に入学した。1年秋からエースになると、3年の夏には最速149キロ右腕として注目を集めた。「公立の星」と称され、市浦和戦では15三振を奪い、ノーヒットノーランを記録。しかし決勝で、強豪の浦和学院に0―4で敗戦。夢には届かず、悔し涙を流した。連投の疲労から、直球は130キロ台までスピードが落ちていた。大舞台まで、あと1歩。甲子園には届かなかったが、知名度は全国区となった。

ヤクルトとは縁もあった。06年のドラフト会議では、ヤクルトと西武から1位指名を受け、抽選の末にヤクルトが交渉権を獲得。母洋子さんはヤクルトレディーとして働き、息子たちを育てていた。ドラフト会議後には「こうなれたことが一番の親孝行だと思う。ありがとうと言いたい。運命みたいなものですね」とコメントを残している。

同期は、楽天・田中将大投手、巨人・坂本勇人内野手、ツインズ・前田健太投手ら。〝ドラ1〟として入ったプロの世界は「悩みまくりでした」と振り返る。1年目の10月4日横浜戦で初勝利を飾った。2年目も開幕ローテーション入りを果たすが、3勝にとどまった。

右肩の負傷や試合中の不慮のケガも乗り越え、10年には主に中継ぎとして57試合に登板。勝利の方程式にも入った。11年には、再び先発として7勝。これが、自身の最多勝のシーズンとなった。「技術はもちろんですが、プロではデータで相手も攻略してくる。その中で投げきるのが大変だった。自分がよくなるための変化を求められる」と明かす。


[ 匿名さん ]
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