爆サイ.com 北陸版

📿 創価学会


No.8760695
合計:
#45
>>44の続き
・4人組の工作は、作家の有吉佐和子や松村謙三(元文相)らを通じて執拗に行
 われた。
 1965年6月、有吉は池田と懇談した。池田が中国に関心を持っていること
 を知ると当時青年部長だった(第5代会長の)秋谷栄之助に電話で、「中国の
 代表者に会ってはどうか」と連絡した。秋谷から報告を受けた池田は、「日中
 友好を考える上で、重要な機会だ。青年部の幹部達で会ってはどうか」と応じ
 た。

(続く)

創価学会と中国共産党(2/4)
2007-09-09 15:53:03 | Weblog
・1965年7月、有吉同席の元、秋谷らは「孫平化、劉徳有」らと会った。これが中国と創価学会との最初の接触となった。

・1968年9月の創価学会第11回学生部総会で池田大作は「日中国交正常化の 提言」を行った。これで中国側は俄然、池田に注目するようになる。
 鎖国状態から脱して、 日本に対する影響力を回復したいと考えた。

 しかも最高指導者が絶対的な権力を持っていることや上下関係が厳しいなどの 共通点や1,000万人の会員数は、中国にとっても創価学会はきわめて利用価値の高い団体と考えられた。

・1970年3月、松村と池田が会談。松村は、池田の「日中国交正常化の提言」を評価し、訪中を進めた。しかし池田は、慎重に「国交回復は政治の次元、創価学会は仏教団体ですので、創価学会が創設した公明党に行って貰いましょう。」と応じた。

 その後公明党代表団が訪中し、中国とのパイプを形成することになる。

・1971年3月〜4月、いわゆる「ピンポン外交」で中国とアメリカの選手団が仲良くなり、同年4月10日アメリカ選手団が訪中し、「ピンポン玉は軽いが、友情の重みは計り知れない。」との周恩来の言葉となる。

・1972年2月21日、ニクソン訪中。

(以下(3)項まで、[URL省略]も参照しながら進める。)


[ 匿名さん ]
TOP