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🛎️ 男子プロレスラー


No.10235810
合計:
#163
アントニオ猪木には、全日本に負けないという意識が強かった。
その意識が有能な人をどんどん獲れといういう動きにつながった。

 その一人が、後に「ジャンボ鶴田」として怪物の異名を取った鶴田友美さん(故人)だ。
1972年ミュンヘン五輪レスリング代表として活躍した「金の卵」の獲得を、猪木さんも熱望。
そこでレスリング出身だったテレビ朝日の運動部長(当時)が中大レスリング部に所属した鶴田さんの調査に出向いたという。

 新間氏 ところがその後、何もなかったので、猪木さんは「おかしいなあ。新間、聞きに行って来い」となった。
そうしたら「あれは弱くてダメだ」という報告だった。猪木さんはこれに怒ってね。
「バカじゃないか。今弱くても、うちの道場でいくらでも強くなれるじゃないか。なんで、それがわからないんだ。
今を見るな。将来を見て、その人間をスカウトするべきだろ」って言ったんだ。

 結局、テレビ局の協力を得ることができず、鶴田さんは72年、全日本に入団。
73年3月のデビュー後は、プロレス界を代表する選手として活躍した。
実は中大の先輩にあたる新間氏はその後、鶴田さんと対面する機会があり
「新日本プロレスのほうが戦うプロレスをやっているから、将来も応援できる」と誘ったが、
鶴田さんは「馬場さんにお世話になっていますから」。
そこで猪木さんの指示でテレビ朝日幹部と鶴田さんを会わせたが、首を縦に振ることはなかった。

 新間氏 鶴田はあれだけの体(現役時196センチ、127キロ)だったからね。
猪木さんは後継者にしたかったんですよ。欲しがっていたから私も動いたんです。
最初に「(テレ朝運動部長が)猪木さん、獲りましょうよ」と言ってくれてたら。
鶴田が新日本に来ていたら、面白くなっていただろうね。猪木さんはそういう点(先見)で違った。
 


[ 匿名さん ]
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