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🍣 紀の川市雑談


No.11150416
合計:
#21
原典要約の訳文

「紀州龍門山軍の事」
南軍の大将四条中納言(隆俊)が紀伊の兵3000騎で最初峯に陣を取ったので、北軍は畠山入道(国清)の弟尾張守(義深)を大将にして30000騎を最初峯に寄せた。これが一回目の合戦となった。
4月3日、畠山は最初峯に相対する和佐山に陣を取った。南軍の塩谷伊勢守は策略として最初峯を引いたように見せかけるため龍門山に籠った。
畠山配下の遊佐勘解由は敵が引いたと思い、急いで追いかけ馳せ上った。南軍は1000人の野伏が上から散々に矢を射った。寄せ手が引くべきかどうか迷ったとき塩谷の2000騎が雷が落ちる如くに襲いかかった。
塩谷はあまりに深追いをしたため討ち死にしたが、北軍の軍勢は300余人が討たれ生け捕りになった。

「紀州二度目合戦の事」
紀伊国一回目の合戦で寄せ手が大勢討たれたので、津々山の勢、北軍の大将は色を失って、4月11日その援軍として畠山、細川、今川ら7000余騎を紀伊に派遣した。
龍門山に陣取る四条中納言は平野へ進むか山に籠るかで評定している間に、湯川庄司、越智らは寝返って敵方に降参した。
北軍の芳賀入道(禅可)の子息伊賀守(公頼)は紀伊に寄せ、決死自害の覚悟で白兵戦を戦い、ようやく龍門の陣を落とし攻め勝った。敗れた四条は有田の阿瀬川城に落ち延び、南軍は退却した。


>>20
自分も昔知った時は「えー、こんな所で合戦が? 」と驚いたものだった。
畿南の南朝軍が劣敗していく転機の一つで、南北朝時代の歴史的にも大きい戦い。地元がもっと有名にしたらいいのに、県市は言いたがらない。資料の検証作業が面倒なんだろう。ザ・和歌山クオリティ。


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