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No.6352552
合計:
#421
>>320
百済人は日本人と言葉が通じたと記録してある。663年ハクスキノエの戦い以後山上憶良が百済の官僚の父と共に日本へ亡命した。8才の時だ。憶良の父はそのまま朝廷の官僚になったくらいだから
言葉は不自由でなかったに違いない。のちに憶良は遣唐使の第一回
派遣船に乗って唐に渡った秀才だった。遣隋使、遣唐使が直接船で半島を経由しないで隋、唐に渡った意味は半島が危険だったことを示している。当時船で外海に出る方が危険のはずが、わざわざ航海したしたのは半島が危険と言うしかないだろう。


[ 匿名さん ]
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