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プロ野球 トレード、引退撤回、騒がせストーブリーグ事件簿

日本シリーズ終了後から翌年2月1日のキャンプインまで、プロ野球の試合が行われないシーズンオフは一般的に「ストーブリーグ」と呼ばれている。

この時期の話題といえばFA移籍やメジャー行きの動向、または契約更改と翌シーズンを大きく占う出来事が多い。

そんななか、ストーブリーグを賑わせた事件が過去には幾つかある。

そんな「事件簿」を紹介する。

■キャンプイン前日、小林繁(巨人)と江川卓の交換トレード

1979年1月31日、キャンプインを翌日に控えたこの日、巨人のエース・小林繁と前年のドラフト会議で阪神が交渉権を獲得した江川卓の交換トレードが発表された。

「空白の一日事件」で巨人と契約した江川だったが、その契約は無効とされ、ドラフト会議では4球団が1位指名。

競合の末に阪神が交渉権を獲得した。

12月にはコミッショナー側からの「強い要望」として、一度、江川が阪神へ入団し、その後、トレードで巨人に移籍する異例の要望が提案される。

「巨人からの交換相手は誰か?」。

様々な名が浮上した。

そして1月31日。

巨人のキャンプ地・宮崎に向け羽田空港に姿を現した小林は、球団関係者から呼び止められ、車で空港を後にした。

小林は1976年、1977年といずれも18勝を挙げた巨人のエースだった。

この時の心情を小林は後に「(自分がトレードされると)思わなかった」、「でも、巨人が最大の譲歩、阪神が最高の要求をすれば俺しかいないだろう」と語っている。

悩んだ小林は阪神移籍に同意。

会見では「阪神での仕事で判断してほしい。同情はされたくない」と大人の対応を見せた。

阪神へ移籍した小林はこの年、巨人戦で8勝するなど、自己最多の22勝を挙げる好成績を残した。

■河野博文(日本ハム)の「失踪騒動」

1990年のシーズン終了直後、日本ハムの左腕・河野博文が行方不明となっていることが明らかになる。

河野はこの年の5月、左足のアキレス腱を断裂し、シーズン絶望の大ケガをした。

球団側はケガの回復まで任意引退選手扱いとして登録を抹消しようとしていた。

しかし、失意の河野は「任意引退=クビ」と認識し、行方をくらましてしまったわけだ。

河野が公の場に姿を現したのは、行方不明が明らかになった翌日の11月1日。

球団事務所で会見を行い、失踪騒動は収束した。

河野はその後、先発の一角として日本ハム投手陣を支え、1995年オフにはFAで巨人へ移籍。

左のリリーフとして活躍し、「メークドラマ」と呼ばれた1996年の巨人の大逆転優勝に大きく貢献する。

北京原人に似ているその風貌から「ゲンちゃん」の愛称で親しまれた。

■阪神・新庄剛志「センスがないから野球を辞める」

1995年オフ、阪神・新庄剛志は契約交渉後の会見で「センスがないから野球を辞める」と突然の現役引退を発表。

まさかの出来事に騒然となる。

この年の新庄は87試合に出場し打率.225と不本意なシーズンに終わっていた。

7月には2軍での練習に遅刻し、藤田平2軍監督(その後1軍代理監督)の指示で約1時間正座させられる「事件」も起こった。

藤田監督との確執も噂されたが、突然の引退発表からの2日後に引退を撤回。

またもや世間を唖然とさせた。

その後、新庄は海を渡り、誰もが予想もしなかったメッツに入団。

日本ハム移籍後にはオールスターゲームのホームスチール、ヒーローインタビュー中に現役引退発表と、常に多くの人々を驚かせる言動を続け「新庄らしさ」を貫いた。
【日時】2016年12月29日 17:05
【提供】デイリーニュースオンライン

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