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現代のオヤジに夢と希望を与えてくれる「カール・パーキンス」の人生

■成功と転落を味わった男の話
若いころは夢と希望にあふれていたけれど、40歳、50歳、60歳と年齢を重ねて「俺の人生はこんなものだ」と諦めているオヤジもいるのでは。

そんなオヤジに知ってほしいのが、カール・パーキンスという男のこと。

初期のロックンロールを盛り上げた男といえば、エルヴィス・プレスリーが有名ですが、もう1人忘れちゃいけないのが、カール・パーキンスです。

1956年にリリースした「ブルー・スエード・シューズ」がヒットしたものの、その直後に転落を味わっています。

そして興味深いのは、転落から見事に復活したという点です。

人生の浮き沈みを全力で駆け抜けた彼の生きざまは、現代のオヤジに勇気と希望を与えてくれることでしょう。

■「ほうきとタバコの箱で作ったギター」を弾いていた
昔のミュージシャンは、裕福な家庭の出身者が多かったといいます。

その理由は簡単で、楽器が高価なものだったからです。

パーキンスはどうだったのかというと、彼は貧しい小作農家で生まれた次男坊で、6歳のころには綿花農園で働いていました。

労働時間は12〜14時間にも及び、日当は兄と合わせて50セント。

豆や芋以外に、「ときどき5セントの飴を買うことができた」のだそう。

ギターがほしいと両親にねだっても当然買えず、父がタバコの箱とほうきで作ったギターを弾いていました。

その後、近所の住民が売り出したジーン・オウトリー・モデルのギターを父が2ドルで買い取り、念願の本物のギターを手にすることができたパーキンスですが、ギターはすでに使い古されていて、傷だらけだったといいます。

■ヒットと転落
紆余曲折あり、サン・レコードのオーディションに合格したパーキンス。

彼は「ブルー・スエード・シューズ」で人気を博し、一気にスターダムへと駆け上る————はずでした。

ブルー・スエード・シューズがヒットした直後、事故で重傷を負ったのです。

そんなタイミングで、エルヴィス・プレスリーがブルー・スエード・シューズをカバー。

これが大ヒットを記録し、「ブルー・スエード・シューズといえばエルヴィス」というイメージが定着してしまいました。

パーキンスが復活の機会を失ったのは言うまでもありません。

■復帰と再ブレイク
1956年4月21日のライブで復帰を果たし、「ボッピン・ザ・ブルース」などのシングルを発表しますが、ヒット曲に恵まれない日々が続きます。

その後、1958年にコロムビア・レコードに移籍したものの、チャートインすらままならない状態でしたが、意外な形で再ブレイクを果たします。

1968年に、ビートルズがパーキンスの曲である「マッチボックス」「ハニー・ドント」「みんないい娘」をカバーし、大ヒットを記録。

さらには、ジョニー・キャッシュがパーキンスの曲をもとに作曲した「Daddy Sang Bass」もヒットとなり、パーキンスはキャッシュのツアーバンドに参加するようになりました。

多数のテレビ番組への出演も果たし、再び脚光を浴びることとなったのです。

■後年も音楽業界に貢献
そして1980年代には、ロカビリーのリヴァイバルに乗り、何度目かの再ブレイクを果たします。

1985年では最初で最後の映画出演を果たし、デヴィッド・ボウイと共演したことで話題になりました。

人生最後のコンサートは1997年に行われた「モントセラト島救済コンサート」。

1998年、咽頭がんからくる脳梗塞により、65歳でこの世を去ったパーキンス。

まさに波乱万丈な人生でしたが、彼の生み出した素晴らしい音楽や、不死鳥のごとく復活する姿に、感銘を受けた人も多いはず。

何度も運を引き寄せることができたのも、苦労して生み出した名曲たちがあったからでしょう。

元気がないときや諦めそうなときは、パーキンスの名曲を聴いてパワーをもらってみてはいかがでしょうか。
【日時】2018年10月23日
【提供】YAZIUP
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