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NO.11486891
マれランから比を読み解く 䞖界䞀呚500幎目の真実」ゞャヌナリスト・倧野拓叞氏
 マれラン船団の到達を舞台回しに、16䞖玀から20䞖玀初頭にかけおのフィリピンの瀟䌚のありさたず、囜の成り立ちを独自の芖点で読み解く――。そんな意欲䜜「マれラン船団 䞖界䞀呚幎目の真実 倧航海時代ずアゞア」が今月、東京の䜜品瀟から出版された。このテヌマに挑んだのは、戒厳什期に比で孊び、朝日新聞マニラ支局長を経隓、フィリピン入門曞の決定版「フィリピンを知るための64章」の共線著者ずしおも知られるゞャヌナリストの倧野拓叞氏だ。マれランの比到達呚幎を迎えた幎、数々の蚘念行事が催される䞀方で、ドゥテルテ前倧統領は「怍民者が宗教を䜿っお懐柔し、比の英雄を殺し始めた日をなぜ祝うのか」ず問題を提起。このひずこずが象城するように、マれラン到達は比史の画期を成し、怍民地支配ぞの第䞀歩ずしお、比ナショナリズムを刺激する。マれラン到達時の諞島はどのようなもので、その来航はこの囜の歎史にどう圱響を䞎え、近珟代にどう぀ながっおいるのか。この倧きな問いに迫った倧野氏に話を聞いた。聞き手は竹䞋友章

 ―執筆に圓たっお重芖したこずは。
 比に仕事で駐圚したり、䜕床も旅行に蚪れたりする人でも、フィリピンの成り立ちなどに぀いおなんずなくわかっおいおも、どのような経過をたどっお今日の姿になったのかは知らないずいった声をよく聞く。今日、日本のフィリピン研究は飛躍的に深たったが、䞀方で察象が现分化したりニッチ化したりする傟向があるようだ。ざっくりではあっおも、ダむナミックに、巚芖的に解説するものが少ない、ず私には思える。比の歎史を巚芖的に捉えるずずもに、史資料に基づいお、あたり知られおいない事実を掘り起こし、それを䞀般読者にも読みやすいよう「物語」颚に曞いた。
 私は新聞蚘者出身で、珟圚もささやかながらゞャヌナリストずしお掻動をしおいるから、今日のフィリピン瀟䌚の理解にも圹立぀よう随所に過去ず぀ながる珟代の「ニュヌス」も取り蟌むよう心掛けた。「ゞパングフィリピン説」などの興味深い孊説の玹介や、マれラン来航以前にさかのがる比日関係・比䞭関係にも章を割いた。

 ―参照した史資料は。
 マれラン船団に同行したピガフェッタによる航海蚘録「初の䞖界䞀呚に぀いおの報告」、スペむン宮廷曞蚘官トランシルノァヌノが船団の生還者から話を聞いおたずめた「モルッカ諞島遠埁調曞」、航海長アルボの「航海日誌」、16䞖玀末に比に掟遣されたスペむンの行政官モルガによる「フィリピン諞島誌」ずいった圓時の䞀次史料を参考にした。マれラン到達前の颚俗に぀いおは、南宋期の䞭囜泉州の圹人・趙汝适による「諞蕃志」なども参照した。
 今回の執筆で特筆しおおきたいこずがある。ピガフェッタやトランシルノァヌノ、モルガなどは日本語に翻蚳されおいるが、原文は倧きな図曞通や研究所に所蔵され、䞀般の人には手が届きにくかった。それが、21䞖玀になっお「プロゞェクト・グヌテンベルク」ずいう組織を運営する米囜のが英蚳し、オンラむンで公開しおいる。だれでも無料で自由にアクセスできる。著䜜暩が切れた䞖界的な文孊や歎史的文曞など、今幎初頭時点で䞇点䜙りを数える。フィリピン史研究の基本文献「フィリピン諞島誌集成〜幎」も党55巻が電子曞籍ずしお公開されおいる。米の歎史家ブレアず曞誌孊者ロバヌト゜ンが䞭心になっお線纂ぞんさんし、幎代初頭に限定出版された重芁な史資料だ。
 デゞタル化されおいるこずを知らない日本の研究者もいるず聞き、ちょっず意倖だった。私は今回、倧いに掻甚させおもらった。

 ―「フィリピン」の領域はどう決たった。
 幎のマれラン到達埌、幎にビリャロボス遠埁隊が亀易拠点を䜜る目的で来航した。その際、サマヌル島やレむテ島を、フェリペ䞖圓時のスペむン皇倪子にちなんで「ラス・むスラス・フェリペナスフェリペの島々」ず名付けたのが始たり。フィリピン諞島の範囲は時代によっお倉わり、西はボルネオ島やスラりェシ島、東はマヌシャル諞島たで含んでいるずきもある。倧きく蚀うず「スペむン領東むンド」を指す蚀葉だった。だが最終的に実際に統治できたのはル゜ン、ビサダずミンダナオの䞀郚だけ。その支配領域が珟圚の囜家の領域に継承されおいる。ミンダナオ島は米囜時代に組み入れられた。
 マれラン船団から数えお第次のレガスピ隊の分遣隊が幎に比からスペむンの副王領メキシコに垰還する航路を発芋する。レガスピは圓初セブに足堎を築いた。メキシコずの埀埩路ができたこずが、比ぞの支配を決定的にした。
 スペむンはル゜ン島やビサダ諞島の䞻に䜎地でカトリックを垃教し、バラバラだった䞀垯を、カトリックを暪䞲にしお぀なげ、スペむン印の屋根を葺き、長屋を建おた。それが今日のフィリピンの原型だ。しかし、暪䞲をはね぀け、長屋入りを拒んだ人たちがいた。ミンダナオ島のむスラム教埒やル゜ン島など山岳地垯の䌝統信仰を守った人たちだ。キリスト教、むスラム、アニミズム。フィリピンには、倧きく䞉぀の宗教圏が残ったのだ。
 比に来た「スペむン人」は、実はほずんどメキシコを経由しお入っおきおいる。メキシコでの混血者も含め、フィリピンにくれば「スペむン人」。だがそのスペむン人も実は少なかった。怍民地化圓初の17䞖玀で〜人皋床。19䞖玀に入っおも人くらいだ。増え出すのはスペむン統治末期の䞖玀埌半だ。
 スペむン人たちは若い軍人、聖職者、行政官などであり、䞀郚を陀いおほずんど独身男性。そうした男たちは、圓時泉州から比に進出しおいた䞭囜人や、比人ず結婚したり、私生児をもうけたりする。そうしおフィリピン生たれのスペむン人の子ができる。そうした人たちは、諞島生たれを意味する「むンスラヌル」、たたは「フィリピヌノ」ず呌ばれた。䞀方で、元からいた䜏民は「むンディオ」ず呌ばれた。メキシコ先䜏民劎務者も入っおきたが、圌らもマニラのスペむン人瀟䌚では、非癜人であるため䞋に芋られおいた。

 ―どのように囜民党䜓が「フィリピヌノ」になったか。
 フィリピヌノたちは、貿易を通じ経枈力を぀けた䞭囜人や、スペむン統治に協力するこずで、統治の「䞭間管理職」ずしお地方的暩力を保持したダトゥ銖長局ず婚姻を通じお結び぀き、存圚感を高めおいく。17䞖玀から18䞖玀にかけお、英囜やオランダずいった振興海掋囜家が䞖界貿易のおいしいずころを取っおいくようになる。それに䌎いガレオン船を甚いた䞭継貿易が衰退するず、埓来の重商䞻矩が修正され比で砂糖やタバコなど商品䜜物のプランテヌション開発がされ始める。そのずき初めお比で土地の䟡倀が芋盎される。それから土地を集積し、地䞻局を圢成しおいったのもフィリピヌノたちだ。
 19䞖玀には䜏民に名字が䞎えられ、䜏民祚が䜜成され始めるずずもに、囜内教育が始たる。そうした䞭で、地䞻局から出おきたのが、䞭囜系ずスペむン系の血を匕くホセ・リサヌル。リサヌルは欧州留孊を通じ、䞖界で最も偉倧な囜だず思っおいたスペむンが、欧州諞囜では実は䞋に芋られおいるこずも知ったようだ。圌はスペむン人の苛烈な支配を告発するずずもに、フィリピヌノにもスペむン人ず察等の暩利を芁求した。だが、この頃の䞀般の䜏民むンディオにはただフィリピヌノ・アむデンティティヌは浞透しきっおいなかったはずだ。
 リサヌルに圱響を受けながら、「リサヌルはただ甘い、スペむン人を远い出さねばならない」ず抜本的な革呜運動を始めたのが、無産階玚出身のボニファシオ。ボニファシオを抹殺し、独立運動の䞻導暩を握ったアギナルドは旧ダトゥ局出身。「スペむンは远い出したいけど自分たちの地䜍は守りたい」ず革呜を揺り戻した。フィリピン革呜は、リヌダヌの出身階局によっおこのような段階のプロセスを経た。
 元々は「タガログ」、「むロカノ」などの゚スニックレベルでの垰属意識はあっおも、フィリピヌノ・アむデンティティヌを持぀ものは䞀郚だけだった。それが、スペむンぞの抵抗運動、スペむンからの独立戊争、察米戊争、察日戊争など闘争・戊争を通じおフィリピヌノ意識が鍛えられ、拡倧しおいく。支配者・䟵略者に察する抗戊が「敵」に察する「われわれ」の意識を育おる。そうする䞭で、䞖玀をたたいで「フィリピヌノ」ずしおのアむデンティティヌが圢成されおいった。
 こうした比史の倧きなうねりを、欧州の「地理䞊の発芋」史芳に察抗するアゞアの芖点から曞き䞊げようず取り組んだのが本曞だ。

 ◇

 おおの・たくし 幎生たれ。慶応矩塟倧卒業埌、幎から幎間フィリピン倧倧孊院で孊ぶ。朝日新聞のマニラ、ナむロビ、シドニヌ各支局長、「朝日ゞャヌナル」旧゜連東欧移動特掟員、「ア゚ラ」副線集長などを経隓。著曞に「珟代アゞアの統治ず共生」共著、慶應矩塟倧孊出版䌚、「アゞアの近代化における䌝統的䟡倀意識の研究」共著、山喜房仏曞林、「実録むメルダ・マルコス」蚳曞、めこん、「南シナ海玛争」蚳曞、電子曞籍など倚数。日刊たにら新聞の客員線集員も務めた。

 山岳地垯のお守りから遠くを芋る倧野拓叞氏。映画「幎の航海」原題はで、マれランの「奎隷の゚ンリケ」に扮ふんした映画監督兌圹者のキドラッド・タヒミクがずったポヌズを真䌌る本人提䟛
【日時】2023幎11月15日 00:00
【提䟛】たにら新聞

本サむトに掲茉されおいる蚘事の著䜜暩は提䟛元䌁業等に垰属したす。